栽弘義の遺伝子を引き継ぐ男、沖縄水産・上原忠の挑戦~前編 今年の夏は、沖水が強いらしい。 そんな声が聞こえてくる。去…

栽弘義の遺伝子を引き継ぐ男、沖縄水産・上原忠の挑戦~前編

 今年の夏は、沖水が強いらしい。

 そんな声が聞こえてくる。去年の夏の新人大会で準優勝、秋の沖縄大会で優勝、春の沖縄大会で準優勝。新チームになってから3度の県大会で決勝に進んだ力は侮れない、というわけだ。実際、幕を開けた沖縄大会の初戦、沖水は初戦で美里を13-0の5回コールドで下し、夏の甲子園へ好スタートを切った。中部商、糸満の監督としてあわせて4度も甲子園の土を踏んでいる沖縄水産の上原忠監督はこう言った。

「でも、僕の力不足もあって甲子園では1度も勝てていないんです。僕、県外で弱いんですよ。県内では相当、勝ってるんですけどね(苦笑)」



3年前に糸満高校から沖縄水産に転任してきた上原忠監督

 人事異動で糸満から沖水に上原が移ったのが3年前。興南の我喜屋優、美里工の神谷嘉宗、沖縄尚学の比嘉公也といった島人の名将たちと並び称される上原監督が沖水を率いるとあって、沖縄だけでなく全国の野球好きの期待は高まった。のちにホークスで活躍した新垣渚を擁して甲子園に出場した1998年以来、この夏は甲子園で21年ぶりに沖水のユニフォームを観られるかもしれないのだ。

 沖水――。

 ユニフォームの胸文字も、帽子の刺繍もこの二文字。もちろん、野球好きならこの二文字がどこの高校を指すのかを知っている。

 もう四半世紀より前のことになる。沖縄水産高校は1990年と91年、2年続けて夏の甲子園の決勝を戦った。そして、2年続けて決勝で敗れた。天理に0-1、大阪桐蔭に8-13。沖縄県勢初の全国制覇はあと一歩のところで叶わなかった。

 その時の沖縄水産は、いわば”オール沖縄”のようなチームだった。それは、沖縄水産を率いる監督が栽弘義(さい・ひろよし)だったからだ。栽監督は『大胆細心』をモットーに、豊見城、沖縄水産の監督として、春夏あわせて17度の甲子園出場を果たした名伯楽である。栽監督のカリスマ性に惹かれた沖縄の有力な中学生たちは、こぞって沖水を目指した。だから、”オール沖縄”と呼ぶに相応しい沖縄のベストメンバーが、沖水には揃っていた。

 そんな栽監督に魅せられたのは、野球をやる中学生だけではなかった。当時、沖水と同じ本島南部の与那原中で軟式野球部の監督をしていた上原もまた、栽監督に魅せられたひとりだ。

「僕は小学校、中学校と野球をやってきて、もっとも感銘を受けたのは自分でやる野球ではなく、観る高校野球でした。僕が小学校の時に強かったのが豊見城高校で、栽先生が監督です。甲子園で豊見城が東海大相模にサヨナラ負けした時は、もう泣き崩れましたね」

1975年の春、センバツの準々決勝。

 初出場の豊見城は、エースの赤嶺賢勇(のちにジャイアンツ)の力投で、優勝候補の筆頭だった東海大相模を相手に1-0とリードして9回裏を迎えていた。ここで赤嶺は”甲子園のアイドル”原辰徳を三振に斬って取り、ツーアウト、ランナーなし。しかし東海大相模はここから4連打で試合をひっくり返し、豊見城はサヨナラ負けを喫してしまう。上原は当時をこう振り返った。

「あの頃は、沖縄県民すべてを代表するものが高校野球だったと思います。戦争だけじゃなく、いろんな意味で虐(しいた)げられてきた沖縄は長い間、雑草のように生き延びてきました。このあたり(沖水のある糸満市)も、家が一軒もないくらい焼け野原になって、それでも落ち込んだり卑下することなく、たくましく、たくましく耐えてきたんです。その間、本土に対しては悔しい思いもいっぱいしてきているし、劣等感もある。何をやっても勝てない、追いつけない、追い越せない。

そんななか、高校野球で豊見城高校が全国大会のベスト8に入った。沖縄中の車が止まって、県民がすべてブラウン管(のテレビ)にかじりついていました。栽監督が野球で沖縄県民に自信を持たせてくれたんです。沖縄の人でも頑張れば本土の人たちに近づいて、追い越せる可能性があるんだということを教えられた。本当に感動して、甲子園から帰ってきた豊見城の練習を観に行ったんです。カッコよかったですねぇ。甲子園に出た球児たちよりも、栽先生がカッコよかったんです」

 糸満生まれで、糸満高校に通って野球をやっていた上原にとって、同郷で糸満高校の先輩でもある20歳上の栽監督は、いわば「地域のおっちゃん」(上原)だった。そんなおっちゃんが豊見城から沖縄水産へ移ってもなお、テレビのなかで県外の有名な高校をバッタバッタとなぎ倒していく。上原の脳裏には、子どもの頃に豊見城で観た練習中の栽監督の姿が今でも焼き付いている。

「威厳があって、目つきが鋭い。しかも栽先生は選手のことをボロクソに罵(ののし)るんです。声の調子も言葉も厳しくて……でもね、その奥に優しさを感じるんですよ。糸満って漁師町ですから言葉はぶっきらぼうです。だって、サメがそこにいて生きるか死ぬかの場面で『キミ、危ないよ』なんて言ってられないでしょ。だから短い言葉で、どぎつく言い合う。しかも、人を褒めるということをしません。褒められると疎遠な感じがするんです。だから悪く言われて、悪く言い返して、そのうち絆が深まって、親しくなる(笑)。栽先生はまさにそういう人でした」

 栽監督に憧れて、高校野球の監督になろうと決意した上原は、琉球大学に進んで沖縄の中学、高校の体育教師の資格を取った。そして採用試験に合格し、夢への第一歩を踏み出すことになる。しかし、順風満帆だったはずの上原にはこの直後、まさかの悪夢が待ち受けていた。

(中編に続く)