「いつもよりもポジションをひとつ下げ、”ボールに出口を与える”のが仕事だった。4-4-2のボ…
「いつもよりもポジションをひとつ下げ、”ボールに出口を与える”のが仕事だった。4-4-2のボランチで、(山口)蛍との連係もいいから、心地よくプレーできた」
試合後の取材エリアで、元スペイン代表MFアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)は、大勢の記者に囲まれながら、淡々と言った。髪は少し薄くなり、体つきは華奢で、ふくらはぎは横に立っている通訳よりも細い。”隠遁した仙人”のようにすら映る。
しかし、ピッチに立つイニエスタは、他を寄せつけない空気をまとい、ひと蹴りでそこにある世界を変えてしまった――。

FC東京戦で決勝ゴールを決めたアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)
6月15日、味の素スタジアム。深刻な成績低迷から新体制でリスタートした神戸は、首位を走るFC東京に挑んでいる。
「新たに就任したドイツ人監督、トルスティン・フィンクの資質は?」「クラブが掲げた『バルサ化』は迷走しているのか?」「新たな戦い方の形は?」……それらはこの試合の関心事だった。
「久保建英がレアル・マドリードへ移籍したFC東京はいかに戦うか?」も、注目の的だっただろう。
しかし、どれもこれも消し飛んだ。この夜は、ひとりのクラッキがまばゆく輝いた。イニエスタは川崎フロンターレ戦(4月28日)以来のリーグ戦先発出場だったにもかかわらず、なんの違和感もなく試合に馴染み、華麗に主役を演じた。
「アンドレス(イニエスタ)がいるストロングを生かすため、ボール支配率を高める戦いを選択した。アンドレスはどこのポジションもできるが、いつもより低い位置でビルドアップの仕事を託す作戦だった。そこから前を向いて、チャンスを作れると」(フィンク監督)
イニエスタはバックラインからボールを受けると、そのボールを適切なタイミングで、正しい方向に流した。ボールを受けては出す。その単純だが難しい動作を、彼は息を吸って吐くようにやってのける。自然な動作で裏をかき、タイミングを外し、守る側を懐へ入らせない。たとえばFC東京のプレスがはまったように見えたゴールキックも、彼はわずかに位置をずらすだけで自由にボールを受け、出したパスは味方の好機につながった。
前半13分、イニエスタは幻術でも使うように、右サイドを崩している。味方が相手の攻撃をカットし、自陣からのパスをセンターライン近くで受けた後だった。ボールを前へ動かし、中の様子を見ながら、外のコースを取って、立ち塞がろうとする相手を手玉に取る。自らスペースを創り出すと、右サイドを走る三田啓貴に、その歩幅に合わせるようなパス。折り返しからのシュートはバーを叩いたが、その技術はFC東京を徐々に痛めつけた。
「(イニエスタに)いつも軸足を見られている感じで、簡単に飛び込めない。(試合前は厳しくマークする手はずだったが)早々に、みんなで飛び込むのはやめよう、と。後ろで持たせている分には、と思っていました」(FC東京・橋本拳人)
試合のペースは、好調を維持するFC東京が握っていた。右サイドで幅を使い、室屋成からディエゴ・オリヴェイラへのクロスはひとつの形だったし、ロングカウンター、ショートカウンターでも神戸ゴールに押し寄せた。神戸のGKからの”プレゼントミス”で1対1になるシーンもあった。久保が移籍しても、チームとしての完成度で上回り、神戸を追い詰めた。
しかし、神戸は踏みとどまった。イニエスタがボールに触るだけで、乱れかけた攻守が立て直された。「アンドレスはボールを失わない。必ずボールは出てくる」。そんな信頼感がチームに勇気を与えていた。
「アンドレス(イニエスタ)はチームのベストプレーヤー。彼がもたらす安心感、クオリティはやはり大きい」(神戸/ダビド・ビジャ)
そして後半4分だった。イニエスタは、魔法の杖をひと振りするように試合を決める。
前半と違い、立ち上がりの神戸は、右サイドから厚みのある攻撃を仕掛けていた。ただ、イニエスタはペナルティエリア内に入っても、左サイドの離れた場所に身を置き、ゴール前の密集地帯に入っていない。そして西大伍からのクロスをファーサイドで受ける。完璧にコントロールした後、一度はクロスを狙うモーションを見せ、GKがそのためのステップを踏んだ瞬間、ニアサイドに打ち込んだ。
そのゴールは技術的に抜きん出ていたが、戦術的にも出色だった。FC東京は中に絞って堅守を誇る。それに対し、イニエスタは相手の守備がかからない、ぎりぎりの位置でボールを受けている。魔法を使ったように見えたが、準備で優っていたのだ。
「すばらしいゴール? それは、チームが勝ち点を積み上げたという意味でね」
イニエスタはいつものように謙虚に答え、0-1での勝利を祝した。チームは11位まで順位を上げ、降格圏から脱出。たとえコンディションが100%ではなくとも、背番号8は別世界を示した。
現状において、神戸の「バルサ化」が単なる幻想だとしても――。イニエスタは夢を見せてくれるプレーヤーだ。