マイナーリーグで長くプレイングマネージャーを務めたルケーシー氏

 6月8日、マイナーリーグで長くプレイングマネージャー、監督を努め、フィリーズ、レンジャーズ、カブスでも監督を努めたフランク・ルケーシー氏が死去した。92歳だった。

 ルケーシー氏は1927年、サンフランシスコにイタリア移民の子として生まれ、終戦の年の1945年にパシフィックコースト・リーグのポートランドに入団。スイッチヒッターの外野手としてメジャーを目指した。

 1947年にはヤンキース傘下のマイナーチームに移籍。しかし当時のヤンキースはジョー・ディマジオを頂点とする強打の外野手が揃っており、身長170センチと小柄なルケーシー氏が這い上がるには険しい道と思われた。

 まだ20歳そこそこの頃、「君は監督としてならメジャーに行けるよ」とスカウトに言われたルケーシー氏。1951年、ヤンキース傘下を離れ独立系のマイナーチーム・メドフォードに移籍し、24歳でプレイングマネージャーに。これを皮切りに、1957年までマイナーチームのプレイングマネージャーを務める。

 1954年には5月にライナーが頭部を直撃し、脳外科手術を受けるアクシデントもあったものの、1956年からはフィリーズ傘下のマイナーチームの采配をとるように。1958年からは選手を引退して監督一本となるが、フィリーズ傘下のマイナーでは常に優勝争いに絡む好成績を残した。この時代の教え子には殿堂入りした大投手ファージー・ジェンキンスや名遊撃手ラリー・ボーワらがいる。

 フィリーズ傘下で15シーズンに渡りマイナーチームの監督を努めたが、その采配が評価され、1970年には43歳でフィラデルフィア・フィリーズの監督に就任。1年目は73勝88敗、5位に終わる。2年目の71年は67勝95敗で最下位。72年のシーズン途中に解任された。後に近鉄に来るドン・マネー、グレッグ・ルジンスキーら強打者、大投手スティーブ・カールトンもいたが、選手層が薄かった。

 1975年のシーズン途中にはビリー・マーチン監督解任のあとを受けて、テキサス・レンジャーズの7代目監督に。翌76年は76勝86敗で4位。77年も監督を努めたがシーズン途中で解任された。ベテラン投手ゲイロード・ペリー、殿堂入りするバート・ブライレブンら投手陣は揃っていたが、打線がやや弱かった。

 1987年にはカブスの監督となったものの、開幕から8勝17敗と低迷して解任。以後もマイナー・リーグの監督やチームスタッフなどを歴任した。

 MLB監督としては7シーズン715試合で316勝399敗、勝率.442。監督歴はメジャー、マイナー通算で30年。監督としてのルケーシーは、熱血漢でマイナー時代は罰金を課せられたり、退場処分になったりした。しかし同時に「人に優しい」とも評され、人間的な魅力で選手に慕われた。(広尾晃 / Koh Hiroo)