「名誉レフェリー」の追憶・ジャイアント馬場 前編 1972年に全日本プロレスを旗揚げし、日本プロレス界をけん引したジャイアント馬場。団体の未来のため、自らの後継者についてどんな考えを持っていたのか。また、馬場のプロレス観を変えたという、…

「名誉レフェリー」の追憶・ジャイアント馬場 前編

 1972年に全日本プロレスを旗揚げし、日本プロレス界をけん引したジャイアント馬場。団体の未来のため、自らの後継者についてどんな考えを持っていたのか。また、馬場のプロレス観を変えたという、「四天王」のプロレスをどう評価していたのか。全日本プロレスの「名誉レフェリー」で、馬場のマネージャーも務めていた和田京平が当時を振り返る。


小橋建太(左)、三沢光晴(右)ら

「四天王」のプロレスを高く評価していたジャイアント馬場(中央)

 馬場は、全日本プロレスを旗揚げしたと同時に、ミュンヘン五輪レスリング日本代表の鶴田友美、のちのジャンボ鶴田を獲得。鶴田は翌年に国内デビューすると、次期エースとして活躍した。

 さらに1976年には、大相撲の幕内力士だった天龍源一郎が入団する。全日本プロレスの「名誉レフェリー」である和田京平によると、馬場が”自らの後継者”として考えていたのは、その天龍だったという。

「鶴田さんは本当に優等生でした。リング上では、馬場さんの教えをそのまま実践していましたし、技や試合展開についても馬場さんが何も言わなくてもすぐに覚えました。ただ、いい意味で野心がない人で、そういう意味では本当に”サラリーマン”でした。だから鶴田さんは、自分の仕事はきっちりこなすけど、例えば若手選手や社員、後援者とかを引っ張っていくことはなかった。馬場さんは『ジャンボにはそれだけは教えられなかった。もうちょっとプロレスを真剣に考えてほしかった』とよく言っていましたよ。

 逆に、バカ正直にプロレスのことを考えたのが天龍さんでした。馬場さんも『天龍は、プロレスのことだけしか考えていないんだよ。そこがあいつのよさだよなぁ』と目を細めていました。また、全日本プロレスという会社のことを考え、『オレがこの会社を辞める時がきて、次の社長はどうするかって考えると、プロレスのことをいつも考えている天龍だよな』ともおっしゃっていました。だから、馬場さんの後継者は天龍さんだったんですね」

 馬場が後継者として考えていた天龍だが、1990年に新団体「SWS」に移籍し、その構想はご破算になった。あの移籍がなければ、天龍は「名実共に全日本でトップに就いていた」と、和田は振り返る。

 のちに天龍は、馬場がこの世を去った翌年の2000年7月に、馬場の夫人で社長を務めていた元子さんの要請を受け、全日本プロレスへ復帰する。直前に三沢光晴ら選手や社員の50人近くが離脱して「プロレスリング・ノア」を設立したため、その危機を乗り切る手段だったが、一度”裏切った”人間を戻すことはファンに驚きを与えた。

「あの時、ファンの中には天龍さんを戻すことに違和感を覚えた方も多かったと思います。でも、僕は当たり前だと思っていました。なぜなら、馬場さんの意向を聞いていましたから。天龍さんが出ていった後も、馬場さんは『本当に全日本が立ちいかなくなることがあれば、天龍を戻す』とおっしゃっていたんです。もちろん、元子さんもそのことは聞いています。自分の後継に考えていた天龍さんのことを、それほど認めていたんです」

 天龍に特別な思いを抱いていた馬場。一方で、自らが第一線を退いた1990年代に入ると、馬場のプロレス観を変える戦いが全日本プロレスで始まった。

 それが三沢光晴、川田利明、田上明、小橋建太の4人による「四天王プロレス」だった。天龍ら主力選手が「SWS」に移籍し、団体存亡の危機に立った時に残された「四天王」は、地方でも絶対に手を抜かない全力ファイトを見せた。それまでに多かった反則負けやギブアップなどではなく、ピンフォールでの決着を目指すことは馬場自身が四天王に要求したことだが、4人はそんな馬場の構想を凌駕した。

「馬場さんは、体が大きい人を優遇してきたんです。体が大きければリングに上がっただけでも説得力が生まれますから。でも、天龍さんたちが出て行ったあとに彼らが激しくやりあっている姿を見て、『こいつらすごいな』と驚いていました。

 馬場さんが考えていた最高のプロレスは、自分もやってきた観客に”魅せる”アメリカンスタイルのプロレス。しかし四天王の4人は、受け身が取れない頭から落とす技もしますし、エルボーや蹴りも、頭や顔面にバチバチ入れる。その想像を超えた試合に馬場さんのプロレス観が覆ってしまったんです。

 彼らの試合は本当に認めていましたよ。日本武道館の試合が終わった後なんて、涙を流しながら『今日の試合は本当によかった。あいつら最高にすごいな』と言って、レフェリーを務めた僕にも”ボーナス”を渡してくれました。その時に『僕だけもらったら悪いです』と言ったんですが、馬場さんは『バカヤロー。あいつらにもちゃんとやってるよ』と笑っていました。馬場さんの中で、四天王プロレスはアメリカンプロレスを完全に超えたんですね」

 馬場自身も、試合で四天王のすごさを体感したことがある。中でも和田が忘れられないのが、1998年1月23日、後楽園ホールで行なわれた馬場の「還暦特別試合」だった。馬場は、三沢、マウナケア・モスマンと組んで、川田、小橋、渕正信と対戦した。試合は、馬場がジャンピングネックブリーカードロップで渕をフォールして勝利したが、それまでに川田の蹴り、小橋のチョップを何度も真正面から受けた。

「川田が馬場さんの背中を蹴るにも思いっきり手加減しないでいつも通り背中をバシンと蹴る。試合が終わった後に馬場さんは、『京平、川田はいつもあんなに三沢を蹴っているのか?』と聞いてきました。僕が『そうです』って答えると『体中に電気が走ったぞ。あれは痛いな。こんな試合をあいつら毎日やっているのか。でも、オレも還暦であの蹴りについていけたな。まだまだできるな』と喜んでいました。

 60歳になって、四天王と戦う姿は感無量でしたね。川田も小橋も、馬場さんに対して手を抜かなかった。たぶん、手を抜けば失礼だと思ったんでしょう。馬場さんも必死で、やられながらも一生懸命に耐えて、プロレスのうまさを見せました。僕はレフェリングしながら、『やっぱり馬場さんはすごいな。さすがトップ選手だな』と思っていましたよ」

 その還暦試合から1年後の1999年1月31日、馬場は急逝した。和田は「だから、あの試合は馬場さんの生涯最後の名勝負でしたね」と振り返る。

 今年で没後20年。今のプロレス界が継承していくべき、馬場の思いとは。

「馬場さんは、常にファンを一番に考えていました。『オレたちのスポンサーはファンだぞ。ファンを裏切っちゃいけない』と。”ファンあってのプロレスであり、レスラーだ”という思いを、今の選手たちも受け継いでほしいですね」

(=敬称略)