「名誉レフェリー」の追憶・ジャイアント馬場 前編“東洋の巨人”とうたわれた不世出のプロレスラー、ジャイアント馬場がこの世を去ってから今年で20年が経った。2月19日には両国国技館で「没後20年追善興行」が開催され…

「名誉レフェリー」の追憶・ジャイアント馬場 前編

“東洋の巨人”とうたわれた不世出のプロレスラー、ジャイアント馬場がこの世を去ってから今年で20年が経った。2月19日には両国国技館で「没後20年追善興行」が開催され、団体の枠を超えて多くの選手たちが参戦。イベントは超満員の観衆を集め、あらためてその偉業が見直される形となった。

 日本人として初めてNWA(全米レスリング同盟)世界ヘビー級王者となった偉大なレジェンドは、どんなプロレス観を持ってリングに上がっていたのか。全日本プロレスの「名誉レフェリー」で、馬場のマネージャーも務めていた和田京平が知られざる秘話を明かす。




日本プロレス界を象徴する存在だったジャイアント馬場

 1955年にプロ野球の巨人に入団した馬場は、大洋(現DeNA)に移籍した1960年の春キャンプで大ケガを負い引退。同年、巨人時代に面識があった力道山に直訴して日本プロレスに入団した。身長209センチ、体重145キロと日本人離れした体格を持つ馬場は、日本だけでなくプロレスの本場アメリカでも人気を獲得し、1963年12月に力道山が急逝して以降、日本プロレスのエースとしてマット界を支えた。

 1972年には日本プロレスを退団し、自らの団体となる全日本プロレスを設立。そこでリングを設営する「リング屋さん」として団体に携わっていた和田は、その機敏な動きが馬場の目に留まり、旗揚げ2年後の1974年からレフェリーに抜てきされた。同時に馬場のマネージャーも務め、公私で生活を共にすることになる。

 レスラーとして、団体の経営者として一時代を築いた馬場は、どんな基準でレスラーを評価していたのか。和田はこう振り返る。

「絶対的な基準は、受け身。馬場さんは受け身がうまい選手を高く評価していました。中でも、ハーリー・レイス、ディック・マードック、ドリーとテリーの”ザ・ファンクス”の兄弟。日本人選手だったら大熊元司さんを絶賛していました。本当にあの方たちの受け身はすごかったので、馬場さんは若い選手たちに教える際もレイスやマードックの名前を出して、『お前らマネしろよ』と言っていましたよ」

 相手の技を受けることで、攻防のすごさを観客に伝えるプロレスにおいて、受け身は白熱の試合を形作る”生命線”でもある。馬場が「いい受け身かどうか」を判断する上で重視していたのは、マットに叩きつけられた時の「音」だったという。

「馬場さんが受け身のうまさを判断する技は、ボディスラム、ショルダースルーといった、投げる相手から離れて自分ひとりで受け身を取る技でした。そういった技でマットに叩きつけられた時の音が、”ドンッ”とひとつでなくてはいけない。”ド、ドンッ”と音が分散した受け身を聞くと、馬場さんは『下手くそだなぁ』と顔をしかめていました(笑)。

 音が分散すると、お客さんには技の威力は半減したように聞こえるんです。それが、”ドンッ”と音がひとつだと、リングも壊れるような技の迫力と威力がストレートに伝わるんですよ。ただ、これは本当に難しいんです。投げられた時は背中と腕と足がマットに付きますから、どうしてもバラバラになって音が分散してしまう。だから馬場さんは、よく『一枚の板が落ちるように受け身を取れ』と言っていました。

 受け身でひとつの音を出すには相当な練習が必要なんですけど、馬場さんはそれができなければ選手をデビューさせませんでした。とは言っても、ひとつの音だけの受け身を取る選手はほとんどいなかったので、”それに近い音が出せるようになったら”という感じでしたけどね。なので、当時の全日本は、デビューまで1年ぐらいかかったんです」

 ただ、唯一の例外が三沢光晴だった。栃木の足利工大付属高時代にレスリング部で活躍した三沢は、卒業後の1981年3月に全日本に入門した。

「全日本に入った当初から、三沢はひとつの音だけの受け身ができました。誰も教えていないのにできたので、あれは天性だと思います。馬場さんは、デビューする前の練習生だった三沢の受け身を見た時に『オォー』と驚いていました。のちに天龍(源一郎)さんも『三沢にはかなわないな』と脱帽していましたよ」

 天性の受け身の技術を持っていた三沢は、入門からわずか5カ月後にデビューを果たした。

「控え室にいる馬場さんが、受け身の音だけを聞いて『今、試合をしているのは三沢だな』ってわかったくらいですからね。その音を聞いた時、私に『京平、よく聞いてみろ。音はひとつだろ。三沢はやっぱりうまいなぁ』と目を細めていました」

 また、三沢の高校の後輩で、1982年3月に入団した川田利明も受け身がうまかった。三沢は1984年8月から2代目タイガーマスクに変身したが、馬場の頭の中には川田を抜てきする考えもあったという。

「川田も三沢以上に受け身がうまかったですし、飛び技もできたから、『タイガーマスクは川田で』とも考えていたようです。でも、いろいろな要素をふまえて三沢をタイガーマスクにした。その後も、結果的には実現しなかったんですが、三沢に続いて川田もタイガーマスクにして、”タイガーマスク兄弟”として売り出すプランもあったんです」

 受け身のうまい選手を最大限に評価した馬場。逆に評価しない選手には「自分勝手にやりたいことだけやる野郎は許さん」と明かしていたという。

「例えばこんな話があるんです。外国人レスラーから、売り込みのビデオがよく馬場さんに送られてきたんですが、そういった選手のビデオは自分が攻めているシーンばかり。馬場さんが『オッ、こいつはいいなぁ』って評価したのは、決まってやられている選手でした。

 それで馬場さんが全日本に呼んだのが、ジョージ・ハインズでした。『攻める選手なんかいらない。受けるのがうまい選手がほしいんだ』と。だから、自分がやりたいことだけやって、技を受けないミル・マスカラスなんかは評価していなかったですね。人気があったから呼んでいましたけど、本当のことを言えば、馬場さんはマスカラスを呼びたくなかったんですよ」

 それほど受け身を重視していた馬場だが、何より馬場自身が受け身の達人だった。和田は馬場の受け身のうまさを、思わぬ場所で目の当たりにしたことがある。それは、ハワイで共にラウンドしたゴルフ場だった。

「馬場さんのボールがバンカーに入って、僕は少し離れたフェアウェイから見ていたんですが、不意に馬場さんの姿が消えたんです。『あれ、社長が消えた! 大丈夫か』と慌ててカートでそのバンカーに向かったら、馬場さんが両手広げて仰向けになり、受け身を取った態勢で倒れていたんです。芝に足が引っかかって倒れたらしいんですけど、その時、馬場さんはこう言いました。『京平、オレ受け身うまいなぁ。レスラーでよかったよ』って。それ聞いて爆笑しちゃいましたよ。とっさに受け身を取ったんでしょうけど、今でもあの馬場さんの姿は忘れられないですね(笑)」

(つづく)

(=敬称略)