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【サイモン・クーパーのフットボール・オンライン】
オランダからロッベンに愛を込めて(後編)

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 若くしてフットボール選手としての階段を順調に上っていったアリエン・ロッベンだったが、オランダ人が彼に向ける疑念はなかなか消えなかった。何よりも「タクティーク(戦術)」を重視する国で、ロッベンは戦術にまったく関心を払わずにプレーしているように見えた。

 ロッベンが崇拝する「オランダ・フットボールの父」であるヨハン・クライフに言わせるなら、フットボールのチームは「10人の選手と左ウィンガーで構成される」。左ウィンガーは戦術の枠外にいるのだ。ロッベンは彼自身の「戦術」をこう語っている。

「ピッチに入るときは『さあ、今日もボールで遊ぼうか』と思う」


バイエルンを退団するアリエン・ロッベン。今後については未定だという

 photo by Getty Images

 オランダ代表として初めて出場した主要大会であるユーロ2004のチェコ戦で、ロッベンは強豪チームのDFを切り裂き、クロスから2ゴールを演出した。ところが、監督のディック・アドフォカートは彼をいきなりベンチに下げてしまう。交代の理由は、ロッベンがチェコの守備的MFトマシュ・ガラセクをしっかりマークできていないということのようだった。

 ロッベンがピッチを去るまで、オランダは2-1でリードしていたが、終わってみれば2-3で敗れていた。この出来事はオランダの歴史に「魔の交代」の名で刻まれている。

 2006年のワールドカップを迎える頃、ロッベンは相手DFを好き放題に切り裂く場面が増えていた。それでもオランダ代表のストライカー、ロビン・ファン・ペルシーは記者たちを前に不満を口にした。「彼はときどきチームにとってではなく、自分にとってベストな選択をする」。言い換えれば、僕が子どものころオランダのピッチで耳にした「ドリブルをするな!」だ。

 ロッベンがドリブラーとしての地位を揺るぎないものにし、周りの反発を気にしなくてすむようになったのは、20代も半ばになってからだ。所属クラブのバイエルンはロッベンの考えに理解を示し、彼がドイツ人選手並みの体をつくることを手助けした。今シーズンは負傷のために試合出場がほとんどなかったとはいえ、「ガラスの男」と呼ばれていた10年前に彼がこの年齢までプレーするとは、誰も予想できなかった。

 よく知られていることだが、ロッベンはたいていのプレーを、わずか1種類の動きでやり続けている。21世紀のフットボール界に刻まれる技のひとつで、フランス語にはこれを表す「ル・ロッベン」というフレーズまである。

 ロッベンは右サイドを駆け上がり、ほんの一瞬、アウトサイドに出るかのようにフェイントをかける。しかしすぐインサイドに切れ込み、GKから遠いゴールのサイドに左足でシュートを打つ。

 相手DFはロッベンが何をするか知っているのだが、彼の動きが速いために、頭ではわかっていてもフェイントに引っかかる。ヨハン・クライフの有名な言葉を借りれば「私に普通に合わせてきたら、相手はすでに遅れている」という状況だ。

 ロッベンが2017年に代表を引退するまでの10年間ほど、オランダ代表は彼なしにはやってこられなかった。伝統の「トータル・フットボール」は機能しなくなり、最近のオランダ代表で最もいい試合の多くは、強固な守備と、ロッベンを経由する素早いカウンター攻撃によるものだった。

 ユーロ2008でイタリアとフランスに圧勝した試合、2010年ワールドカップのブラジル戦の後半、そして2014年ワールドカップでスペインに5-1で勝利したときの輝かしい28分間──。これらはいずれも、ロッベンがいなければ現実のものにならなかった。

 2010年のワールドカップで、ロッベンはオランダを決勝にまで導いた。まだ0-0だった試合の終盤、ロッベンはスペインのGKイケル・カシージャスと1対1になり、ゴールの隅をめがけてシュートを放った。カシージャスは脚を伸ばして、なんとかつま先でセーブした。

 後にオランダ代表の凋落が始まると、それまで代表が「ロッベン依存症」にかかっていたことがすっかり明らかになった。2014~17年のオランダ代表は、ロッベンが出場した試合の得点が、出場しなかった試合に比べて平均で約1点多い。

 僕を含めてオランダのファンは今、ロッベンが故郷の村に戻って、ひと休みできることを願っている。少なくとも、オランダ人選手らしくなかったかもしれない彼が、オランダに帰ってくることを。