負けないエース・斉藤和巳が歩んだ道(1) プロ野球は、毎年100人がクビになり、入れ替わりでルーキーが100人入って…
負けないエース・斉藤和巳が歩んだ道(1)
プロ野球は、毎年100人がクビになり、入れ替わりでルーキーが100人入ってくるシビアな世界だ。
ドラフト会議で1位指名される選手は当然、厳しい目で選別される。
1年中、アマチュア選手に張りつくスカウトがいて、彼らによって集められた情報をさらに吟味する編成の責任者がいる。しかし、必ずしも彼らの見立てがすべて正しいとは限らない。鳴り物入りで入団しながら、数年でユニフォームを脱ぐ選手は数え切れないほどいる。
1995年ドラフト会議で福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)から1位指名を受けた斉藤和巳も「消えた天才」になる可能性があった。プロ3年目のシーズンオフに右肩の手術を行ない、プロ初勝利を挙げたのは5年目の2000年。のちに、沢村賞に2度も輝いた男は、どうやってプロの世界で生き残ることができたのか。
2度の沢村賞をはじめ、多くのタイトルを手にした斉藤
【野球人生を変えた小久保裕紀との出会い】
1998年に手術をした右肩のリハビリの最中に、プロ野球人生を大きく変える出会いがあった。ちょうど同じ時期に、ホークスの主力打者である小久保裕紀が右肩の手術を終え、戦列復帰を目指してリハビリに励んでいた。
斉藤が当時を振り返る。
「その頃、小久保さんはバリバリのレギュラー。僕はちょっとだけ一軍で投げさせてもらった若手のひとり。手術後に小久保さんと過ごさせていただくなかで、いろいろなことに気づくことができました。小久保さんはアドバイスをするという感じではなく、タイミングを見てヒントをくれました。それまでの僕は、付き合いやすい人、気を許せる仲間と一緒にいることが多かったけど、小久保さんから、人との接し方や野球への取り組み方を学びました」
小久保のトレーニング量は、プロ野球選手の中でも特に多いと言われていた。
「一緒に自主トレをさせてもらうようになって、小久保さんの本当のすごさがわかりました。トレーニングメニューが厳しいので、自主トレ前に”自分だけの自主トレ”をして、小久保さんに負けないように準備しました。年下の僕が、走る量でもスピードでも一番になれるように。『まだ野球の技術では勝負できん』と思ったので、そこだけは勝とうと」
斉藤がキリギリスなら、小久保はアリだった。それも、能力も実績もあるアリだった。
「『一軍であれだけ実績を残している人が、これだけ練習するのか』と思いました。一軍選手のすごさがわかったような気がします」
もし斉藤が肩の手術をしなかったら、リハビリのタイミングで小久保と出会わなかったら、おそらくその後の飛躍はなかった。肩を痛めたことで小久保と師弟関係を結び、プロ中のプロから生き方を学んでいったのだ。
【「斉藤をエースにしなければコーチの技量が問われる」】
1995年から、ホークスの指揮官としてチームを率いたのが王貞治であり、その秋のドラフト会議でホークスから1位指名を受けたのが斉藤だった。
王は斉藤に期待を寄せていた。
「入団前、斉藤のことは、身長が190センチくらいあって、足も速くて、バッティングもいいと聞いていました。とにかく運動能力が高い。『うちが目指すチーム作りに合った選手かもしれない』と思いました。はじめに私が胸にとめたのはそのこと。
肩の故障もあって、なかなか一軍でいいピッチングはできなかったけど、少なくとも上で投げられるくらいにはなった。斉藤は粗削りでしたが、いいものを持っていたので『いずれは中心選手になるだろう』と見ていました」
1999年10月、ホークスは福岡に移転してから初めてのリーグ優勝を飾り、日本一に登り詰めた。そのチームで、数年後を見据えて策を練っていたのが、投手コーチの尾花髙夫だった。
1999年から2005年までの7年間で5度のシーズン1位、3度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いたホークスの投手陣を支えた尾花は、斉藤をエース候補と考えていた。
尾花が言う。
「『このピッチャーをエースにしなければ、自分のコーチとしての技量が問われる』と思いました。すべてが素晴らしかった。故障さえなければエースになれると疑いませんでした」
数多くの名投手を育ててきた名伯楽は、若手投手のどこに惹かれたのか。
「まず、投げている姿がよかった。バッターに向かっていく姿勢はなかなか教えられるものじゃない。体は大きいし、ストレートが速いし、フォークもよく落ちる。一応、スライダーもカーブも投げられるので、先発が十分に務まるだろうと思いました。
斉藤はバッターと本当に『勝負している』ことが伝わってきた。まったく逃げないのが特によかったですね。心配なのは肩だけ。手術、リハビリ明けの肩がどれだけ回復しているのか、どれくらい投げられるのか、ということだけでした」
【監督の意向に逆らっても中6日を守る】
プロ14年間で425試合(2203回)を投げた尾花自身は利き腕を壊したことはないが、投手の危うさをよく知っている。
「斉藤の場合、負担をかければ投げられなくなるというリスクを常に感じていたので、1試合の球数をいつも頭に入れていました。先発が6人いれば、斉藤にあまり負担をかけることなくシーズンを戦えるだろうと考えました」
基本的には、登板から次の登板まで中6日を開けることにした。一度だけ中5日での登板をテストしたが、斉藤の肩の回復は思わしくなかった。だから、「絶対に中6日は空ける」ことを尾花は決めた。
王監督に「中5日では本当に投げさせられないか」と聞かれても、一度も首を縦に振らなかった。監督との関係がギクシャクしても、投手コーチとしては絶対に譲れないところだった。
「ホークスのエースになった後の斉藤は、もうホークスのエースではなく、『日本のエース』だと僕は思って見ていました。『日本のエース』を壊すわけにはいかない。これほどのピッチャーはもう出てこないと思ったし、もし離脱することになったら、ホークスはものすごい痛手をこうむることになりますから」
【「ほかの選手とつるむな」という小久保の助言】
2000年6月24日、記念すべきプロ初先発初勝利の日。斉藤と共にお立ち台に上がり、ヒーローインタビューを受けたのは小久保だった。2回に小久保がホームランで挙げた1点を斉藤が守り、勝利した。
初勝利の斉藤と決勝ホームランの小久保が並んだシーンは、小久保にとっても印象深かったという。
「和巳が初勝利を挙げた時は、僕のホームランで勝ったことに縁を感じました。ヒーローインタビューの後の取材で、新聞記者に『明日の一面は全部彼にしてよ』と言った記憶があります。
和巳の球種は少ない。ストレートとフォーク、カーブ、へなちょこのスライダーくらい。それでも成績を残せるようになったのは、コントロールがよかったから。特にフォークの精度が高かった。ベース板の上に落とすだけじゃなくて、インサイド、アウトサイドに投げ分けることができましたからね」
コントロールがよくなったのは、下半身トレーニングの成果だろう。
「しっかり、和巳が鍛え続けたから。下半身の強さがなければ、あのフォームでは投げられません。2000年のシーズンを戦って、チームメイトが和巳の力を認めるようになりました。ピッチャーの中では若いほうだったんですが、僕は彼にこう言ったことを覚えています。『ピッチャーはマウンドをひとりで守らなければいけない。だから、あまり選手同士でつるむな。黙々と自分の練習をやれるようじゃないと、活躍できないんじゃないか』と。
その頃、ホークスのピッチャー陣を引っ張っていかないといけない、自分がやらないという自覚が、斉藤に芽生えたんだと思います」
【ただ投げるだけじゃあかん】
本当であれば斉藤は2001年にブレイクするはずだったが、肩痛の影響で白星なしに終わった。しかし一軍から離れた1年ほどの間に、大きな変化があった。これがのちに斉藤の武器になる。
「2002年の春にはまた投げられるようになりました。初めは、二軍でリリーフとして抑えても、一軍に上がると打たれる。その繰り返しでした。だから、『ただ投げるだけじゃあかんな』と思うようになりました」
小久保が指摘したように、斉藤の球種は決して多くない。限られた球種で一軍の打者を抑えるためには何が必要なのか。この疑問を抱えながら、初めて野球を見た。
「二軍で先発するようになってから、スタッフにお願いして(自分が投げている)試合の映像をもらい、1球1球見返しながら、ストライクゾーンを9つに分けて自分のノートにチャートをつけました。
当初は何も感じなかったんですが、そのうちに自分のいい時と悪い時の傾向が出ていることに気がついたんです。『こんな時のオレはいいけど、こうなったら崩れる』と好不調の違いがわかったので、その差をなくそうと考えました」
それまでも他の投手の投球を見ながら、チャートをつけることはあった。ただ、「やれ」と言われてやっていただけ。この時に初めて何かが見えた。
「やっぱり、真ん中に入った甘い球は打たれる。でも、甘くても打たれない時がある。甘い球でも打たれないのはなぜなのか? どうしてバッターが見逃したのか、打ち損じたのかを考えました。そのうちに、前後の配球の意味が少しだけわかるようになったんです」
ずっと能力頼みで投げてきた斉藤が、初めて頭を使うようになったのだ。
「一軍に呼ばれるたびに力んで失敗したけど、気負っても仕方がない。10の力を出そうと思っても難しいので、自分が持っているものをどれだけ発揮できるかを考えました」
自分に与えたテーマは「変わらないこと」。いい時も悪い時も、気持ちを変えない。どんな相手と対戦しても同じ気持ちで向かうようにした。
「はじめは気持ちを抑えるのがしんどかったんですけど、夏くらいに一軍に上がってから、結果を出せるようになりました。二軍でしていたピッチングが一軍でもできるようになってきて。『オレでも一軍でやれるぞ』と思ったのはその頃です」
2002年8月10日のバファローズ戦で、斉藤は2年ぶりの勝利を挙げた。そのシーズンは、2000年の89回3分の1に次ぐイニング数(70回と3分の1)を投げて、4勝1敗、防御率2.94という成績だった。
斉藤は初めて自分の頭で配球の意味を考え、心をコントロールしようとした。完全にできるようになったわけではないが、それまでとは見違えるようだと自分でも思った。
「シーズンが終わった時に、このまま故障さえしなければオレはやれる。来年が勝負や。自分の中で最後の勝負になると思いました。『でも、気負ったらあかん、気負ったらあかん』とも。肩さえ痛くならなければ、2003年にふたケタ勝つ自信がありました」
2003年、最高の才能を持つ投手は20勝を挙げ、日本プロ野球界を代表するエースに成長した。
(つづく)