平成元年に助っ人たちが語っていた日本野球~ラルフ・ブライアント 平成が始まった1989年、つまり今から30年前の平成…
平成元年に助っ人たちが語っていた日本野球~ラルフ・ブライアント
平成が始まった1989年、つまり今から30年前の平成元年のプロ野球。
この年、両リーグの打撃タイトルは、ほぼ外国人選手が独占していた。セ・リーグの打点王のみ、中日の落合博満が獲得していたのだが、ホームラン王はセがヤクルトのラリー・パリッシュ、パが近鉄のラルフ・ブライアントが獲得。パの打点王はオリックスのブーマー・ウエルズで、ブーマーは首位打者にも輝いている。セの首位打者は巨人のウォーレン・クロマティで、最多安打のタイトルはそのクロマティとブーマーが獲得。さらに両リーグのMVPも、セがクロマティ、パがブライアントと、ともに外国人選手が選ばれていた。
じつは平成元年の夏、のちにこのシーズンの両リーグでのタイトルホルダーとなるクロマティ、パリッシュ、ブライアント、ブーマーの4人に、それぞれインタビューを敢行していた。まだ結末の見えていなかったシーズン中の話ではあるが、その当時の彼らの言葉をあらためてここに綴ってみたい。平成元年を沸かせた外国人選手たちの言葉は、令和元年の今、果たしてどんなふうに響くのだろう――。
メジャーとマイナーを行き来していたブライアントは、1988年のシーズン途中、ドジャースと友好球団だった中日ドラゴンズに入団する。しかし当時は一軍登録の外国人枠は2名で、ドラゴンズには郭源治とゲーリー・レーシッチがいたため、ブライアントの出番はなかった。
そんな時、近鉄バファローズのリチャード・デービスが大麻不法所持により逮捕され、退団するという事件が起こる。この緊急事態にバファローズは、ドラゴンズの二軍でくすぶるブライアントのトレードを申し入れた。金銭で移籍したブライアントは1988年、2度の1試合3本塁打を記録するなど、74試合で34本のホームランを放って、その才能を開花させた。そして1989年も、開幕からホームランを量産する。

日本でプレーした8年間で3度の本塁打王に輝いたブライアント(写真右)
ジョージア州の大学では、農業の勉強をしていたんだ。もともと僕は数学が得意でね。(アメリカン)フットボールにも夢中だった。ワイドレシーバーでね。野球もやっていたけど、始めたのは15歳、高校の時からだった。もちろん、子どもの頃から遊びで野球はやっていたけど、リトルリーグのチームには入っていなかった。だから周りの仲間と比べると、本格的に野球を始めたのはかなり遅いほうだったと思う。
なぜかって、たしかに家の周りには空き地もいっぱいあったし、野球をするには困らなかった。でも、父は野球をしたことがない人で、野球にほとんど興味を持っていなかった。僕は4人兄弟の3番目で、兄弟や近所の友だちと遊びでやる野球をやれれば、それで十分だったんだ。
子どもの頃はホームランを打つタイプじゃなかったし、ヒットか三振かというバッターだったと思う。今はホームランか三振かというバッターだけど、そう考えると、今のほうがマシだね(笑)。
でも僕は、今も昔も三振は気にしない。今回がダメだったら、次のプレーで頑張ればいいといつも思ってきた。三振に終わったら、次はヒット。ヒットを打てたらその次はホームラン。いつもそういう気構えでいられれば、それでいいんだ。
高校、大学と、野球とフットボールをやっていたんだけど、高校の時、野球で奨学金をもらえるまでになった。だったら、今度はいかに高い評価を受けてドラフトされるかを考えようと思った。そのために、自分の技術を磨こうと努力した。
僕は何年もかけて自分のなかに眠る野球の才能を目覚めさせてきたんだよ。おかげでドジャースにやっと1巡目で指名されて(1980年、ドジャースから、1981年にはツインズから指名されるも、下位だったため拒否、1981年の二次ドラフトで1巡目の指名を受ける)、ラッキーだったと思っている。
ドジャースでプレーできたことも、中日ドラゴンズから誘われたこともラッキーだった。日本に来ないかと言われたとき、これは自分に与えられたチャンスだと思った。ドラゴンズで過ごした時間は約2カ月と短かったけど、とても多くの経験を積むことができた。ドラゴンズが招いてくれたから日本に来られたわけだし、去年(1988年)、ドラゴンズの二軍でプレーしている僕を見て、近鉄バファローズが声を掛けてくれたこともラッキーだった。そう思うだろう?
でもね、たしかに運が必要なことはある。ただ、忘れちゃいけないのは、運がよければヒットを打てることはあるけど、どうしてもヒットを打ちたいなら運に頼っちゃいけない、ということ。運は僕の人生に若干の作用しかしないし、ラッキーはいつ訪れるかもわからない。だから努力しなくちゃダメなんだ。
僕は高校の時に奨学金をもらえたことも、大学時代にドラフト1巡目でドジャースから指名されたことも、ドラゴンズから声が掛かったことも、バファローズに移ったことも、すべてラッキーだったと思っている。
思っているけど、同時に、それだけの努力をしてきたとも思っているんだ。1試合にホームランを3本も打つなんてこと、アメリカでは一度も経験したことがなかった。でも、僕は日本でそれを何度も経験している(1988年、シーズン2度の1試合3本塁打達成は川上哲治、江藤慎一、レオン・リー、落合博満に続く史上5人目のプロ野球タイ記録。ちなみに1989年も1試合3本塁打を3度記録、このインタビューのあと、球史に残る西武ライオンズ戦でのシーズン4度目の1試合3本塁打を放ち、ブライアントはバファローズに逆転優勝をもたらした)。
自分でもビックリしたし、心の底から自分を信じてやってきたからだと思う。自分はいいプレーができると信じて、結果、今までに誰もやったことのない記録をつくるというのは、それは爽快なものだよ。
日本に来て、なぜこんなにホームランを打てるようになったのかって、よく訊かれるんだけど、じつはその理由は僕にもよくわからない。「努力した結果、僕が成長したから」と答えるしかないんだ。
ひとつだけ、間違いないのは、僕がホームランを打てるようになったのは日本に来てから、ということ。で、日本に来てからできるようになったことは、神経を集中させて試合に臨むということなんだ。
僕はグラウンドを離れる時、野球はすべて置いていく。そしてグラウンドに戻ってきたら、ボールだけに集中する。要は、ボールがバットの当たるべき場所にきちんと当たっているから、ホームランになるんだろ。僕が意識しているのは、ピッチャーの投げたボールを確実にミートすること。それだけなのさ。