平成元年に助っ人たちが語っていた日本野球~ラリー・パリッシュ 平成が始まった1989年、つまり今から30年前の平成元…
平成元年に助っ人たちが語っていた日本野球~ラリー・パリッシュ
平成が始まった1989年、つまり今から30年前の平成元年のプロ野球。
この年、両リーグの打撃タイトルは、ほぼ外国人選手が独占していた。セ・リーグの打点王のみ、中日の落合博満が獲得していたのだが、ホームラン王はセがヤクルトのラリー・パリッシュ、パが近鉄のラルフ・ブライアントが獲得。パの打点王はオリックスのブーマー・ウエルズで、ブーマーは首位打者にも輝いている。セの首位打者は巨人のウォーレン・クロマティで、最多安打のタイトルはそのクロマティとブーマーが獲得。さらに両リーグのMVPも、セがクロマティ、パがブライアントと、ともに外国人選手が選ばれていた。
じつは平成元年の夏、こののちにこのシーズンの両リーグでのタイトルホルダーとなるクロマティ、パリッシュ、ブライアント、ブーマーの4人に、それぞれインタビューを敢行していた。まだ結末の見えていなかったシーズン中の話ではあるが、その当時の彼らの言葉をあらためてここに綴ってみたい。平成元年を沸かせた外国人選手たちの言葉は、令和元年の今、果たしてどんなふうに響くのだろう――。
メジャーリーグで15年、通算256本のホームランを放ったパリッシュは、1989年、ヤクルトスワローズでプレーした。入団会見のとき、好きな食べものを訊かれて「ワニの肉だ」と答えてしまったことから”ワニ男”としてその名を轟かせることになったパリッシュ。太い腕、でっかい身体に加えて、ホームランか三振かという豪快なバッティング、デッドボールに激怒してバットを振り回す乱闘騒ぎ、怒りをぶつけるためにベンチ裏に置かれていたという”ラリー君人形”の存在などが重なって、すっかり暴れん坊のイメージを定着させてしまった。しかし、その素顔は心優しきヤンキーそのもの。ユニフォームを脱いだパリッシュは、グラウンドで暴れるイメージとはあまりにもかけ離れていた。

死球を受けて激高するパリッシュ。気性が激しいことでも有名だった
球場への行き帰りは自転車が最高だね。テキサスにいた時も自転車で通っていたよ。何よりも東京では渋滞がひどいだろう。自転車なら渋滞に巻き込まれることがない。もちろん、ジロジロ見られることもあるけど、自転車通勤はヒザの強化にもなるからね。
日本に来て驚いたのは、練習が長いこと。ウォーミングアップ、ストレッチ、ランニング、バッティング、どれも長すぎる。暑い日でも長い時間、練習するだろう。あれじゃ、体力を消耗するだけだよ。体力は試合のためにとっておくもので、練習が長ければいい結果が出るというものではない。
日本の練習は選手もコーチも、何かしていなきゃいけないという前提があるせいか、大変なふりをしているように見える。そういう取り組み方は悪いクセを身につけさせるだけだよ。選手たちはシャワーを浴びながら不満を口にしているけど、コーチには言わない。コーチに進言することは日本では許されていないからね。アメリカではおかしいと思ったらコーチに質問できる。不満を感じながら練習しているんじゃ、気力も萎えてしまうし、選手が集中力を保つのも難しいと思う。
私は完璧主義者で、うまくいかなかったときは、なぜうまくできなかったのか、頭のなかでリプレイするようにしている。こうすればもっとうまくできるはずだったのに、という答えを見つけないと寝られないんだ。
三振が多いことをあれこれ言われるけど、日本のピッチャーはストライクを投げてこないだろ。アメリカでは考えられない。私はフリースウィンガーだし、バットを振るためにバッターボックスに立っている。最初から歩かせようなんて野球は、やったことがないんだ。
でも日本では100回以上、そういう思いをさせられた。フォアボールで一塁へ歩くなんて、何もしていないのと同じじゃないか。そんな考え方はエゴだと言われるし、出塁すればチームのためにもなる。きちっとボール球を選ぶ目を持っていたら、私の球歴はもっと輝かしいものになっていたかもしれない。
でも、私はガマンできない。なぜなら私はピッチャーに対して、あなたの投げるボールをどこまでも遠くへ飛ばせるんだ、ということを示すためにバットを持っている。だから、ピッチャーが投げたら、バットを振る。私には当たり前のことなんだ。
もちろん、うまくいかなければ自分に腹も立つし、そういう闘争心が自分を駆り立ててきたからこそ、野球の世界でほかの人にできないことをやってきたという自負もある。私はトランプでもゴルフでも勝ちたいし、子どもとかけっこしても勝ちたい。
打てるはずのボールを打てなかった時、自分に腹を立てたそのネガティブな気持ちは、内に溜めておくと、私の心をいつしか侵食してしまう。だからあえて怒りを外へ出して、爆発させるようにしてきた。ラリー君人形(ベンチ裏に常備していた専用のサンドバッグ)にあたるのは、怒りをそこへぶつけて、次のことに取り組むための自分なりの工夫なんだ。
野球をやっていなかったら? 牛を飼っていたかな。いや、大工だったかもしれないね。父が建築の仕事をしていたし、私も子どもの頃からモノをつくるのが好きだった。フロリダに家があるんだけど、設計から建築まで、自分で全部やったんだ。家を建てるという作業は楽しかった。ただの原っぱから、少しずつ積み上げていく。そのプロセスをすべて写真に撮って、アルバムに貼ってある。折に触れてそのアルバムを見るのが楽しみなんだ。だって、それは、確かに自分が成し遂げた仕事だろう。そのたびに満足感を得られるからね。
日本に来る決断を下したのは、私にとっては冒険みたいなものだった。野球がなければきっと来ることのなかった国へ来て、知らないものを見ることができる。私はフロリダ州の真ん中、ディズニーワールドから20マイル(約32キロ)のところにある、ヘインズシティという小さな町で生まれて、そこで暮らしていた。もし野球がなければ、ずっとあの町で暮らしていたと思う。私は、家から8時間以上かかるところへ行ったことがなかったのに、今は野球のおかげで地球を半周もしている。野球は私の目を世界へ向けてくれた。野球がなければ、私の世界は小さなものだった。
ワニ? まさか、ワニを食べると言ったことが日本であんなにセンセーショナルに伝えられるなんて、想像もしていなかったよ。だって、私はフロリダでは毎日、ワニに会っていたからね。フロリダにはたくさんの川、池、沼があるんだ。水辺があれば、そこには必ずワニがいる。ゴルフ場にもいるよ。彼らはグリーンによく寝そべっている。きれいに刈られた芝は、ワニにとって寝心地がいいんだろうね(笑)。