東海大・駅伝戦記 第49回 今年の箱根駅伝で初優勝に沸いた東海大学。復路区間でのまくりは見事だった。とりわけ7区のスタート時点で東洋大と1分8秒差あったタイムを、8区の小松陽平に襷(たすき)を渡す際、わずか4秒差まで追いつめた阪口竜平の…
東海大・駅伝戦記 第49回
今年の箱根駅伝で初優勝に沸いた東海大学。復路区間でのまくりは見事だった。とりわけ7区のスタート時点で東洋大と1分8秒差あったタイムを、8区の小松陽平に襷(たすき)を渡す際、わずか4秒差まで追いつめた阪口竜平の走りは、東海大逆転優勝の大きなポイントになった。
その阪口が今シーズン、あらためて3000mSC(障害)に取り組んでいる。箱根駅伝連覇に向け、チームが新しくスタートした今、阪口が3000mSCに挑戦する理由とはいったい何なのだろうか──。
兵庫カーニバルの3000mSCで優勝した東海大・阪口竜平
4月、兵庫リレーカーニバルの3000mSCは15人がスタートした。阪口は周囲をうかがうように2、3番手をキープして走る。1000mのタイムは2分53秒で母校の後輩である洛南高校3年の三浦龍司がトップ通過。レース前、阪口は高校時代の恩師に「高校生に引っ張らせるなよ」と釘を刺されていたと言うが、「そこで足を使って負けてしまうと何にもならない」と勝負に徹した。
2000mは5分46秒で滋野聖也(プレス工業)が先頭で駆け抜けていく。残り2周の段階で阪口は5番手ぐらいにいた。水濠の前で東海大・両角速(もろずみ・はやし)監督から「アメリカでやってきたことをしっかり出せ」と言う声が聞こえてきた。
そしてラスト1周の鐘の合図とともにスパートをかけ、バックストレートでトップに立つと、そのままゴール。タイムは8分37秒48、自己ベストを更新しての優勝だった。
「今日のメンバーのなかでは、絶対に優勝しないといけないと思っていました。ここで負けているようじゃ塩尻和也さん(富士通)に勝てないですし、ユニバーの選考もかかっています。それに今後、セイコーグランプリや世界陸上を目指す上でも今回は勝ち切らないといけないと思っていたので、そういう面ではまずまずかなって思います」
阪口は汗を拭い、ホッとした表情を見せた。
両角監督からは「ここで優勝しなかったら、これからの大会に出られなくなるぞ」とプレッシャーをかけられていたという。そのミッションは果たした。
以前から「3000mSCで五輪を目指したい」と語っていた阪口だが、これからも3000mSCに集中できることになり、思わず笑みがこぼれる。
こういう展開になるとは、今年2月まで阪口は思っていなかった。
昨年7月、ホクレンディスタンス網走大会の2000mSCに出場した阪口は、水濠を飛んで着地した時に左首足を挫(くじ)いて靭帯を損傷し、踝 (くるぶし)の骨も少し割れた。
8月上旬、様子を見ようと軽くジョグでグラウンドに向かう途中に再度、左足首をひねり、靭帯を切ってしまった。患部を固定し、松葉づえをつく生活を余儀なくされ、約3カ月の長期離脱となった。
出雲駅伝、全日本大学駅伝のアンカー候補だった阪口は、その2つの大会の欠場が決定的になり、両角監督から「もう3000mSCはやらせない」とまで言われた。レース中の故障はともかく、8月のケガは自身の不注意から招いたものだったので、阪口は両角監督の指示に従うしかなかった。
だからこそ、兵庫リレーカーニバルの3000mSCに阪口がエントリーされているのを見て、驚いた。
動きがあったのは、2カ月間のアメリカ合宿中だった。阪口は館澤亨次(たてざわ・りょうじ)や鬼塚翔太らとともにアメリカに渡って練習していた。その時、両角監督から連絡があり、やや唐突に「今年は世界陸上があるし、おまえが3障(3000mSC)に出たいなら、おまえの意思を尊重する」と言われたという。
「最初は『えっ?』と思いましたけど、うれしかったですね。ダメだと言われていたので……(苦笑)。なぜ監督の考えが変わったのかはわからないですけど、大きなチャンスを与えてくださったので、その期待に応えたいですし、今季、自分の最大の目標にしている世界陸上に出て、結果を残したい。その時に気持ちが切り替わりました」
アメリカ合宿中、2月は筋トレなど体づくりの練習が中心だったが、3月になると本格的に走り込みを開始し、3000mSCの練習にも取り組んだ。
「3月はしっかりと距離をこなすことができて、1カ月の走行距離も箱根駅伝前よりも多い925キロになりました。さらにスピード練習、ハードリング練習もできて最終的に4キロ、体を絞ることができたんです。ハードリングでも軽さを感じられましたし、ハードリングの技術もアメリカのコーチに教えていただいて、すごく充実した2カ月でした」
「大学生にとって3大駅伝はすごく重要ですし、目標にしないといけない大会ですけど、アメリカでトレーニングしていると、駅伝は日本だけの大会なんだとあらためてわかりました。そこに専念しすぎて東京五輪に出ることに支障が出るのであれば、駅伝さえも回避しないといけないかなと……。今、自分のなかでは箱根駅伝よりも東京五輪を第一に考えていきたいと思っています」
阪口のなかには箱根駅伝で優勝を果たし、主力としてひとつやり切った思いがあったのだろう。結果を出してアメリカに行き、両角監督から3000mSC挑戦のお墨付きももらった。自分がやりたい種目に挑戦し、世界で戦うチャンスを得た今、必然的に東京五輪へのモチベーションが上がっている。
競技者として高みを目指すのはある意味、当然である。3000mSC挑戦は東京五輪に出場するためでもあるが、もうひとつアメリカで見てきた夢を実現したいからでもある。
「海外にはイヴァン・ジャガー選手とか、3000mSCのスター選手がいるんですよ。そういう選手は日本にはいないですし、そういう選手が出てくれば日本でも3000mSCという種目もメジャーになっていくと思うんです。自分はまだそんな実力はないですけど、いずれそうなって『阪口がやっているから僕もやりたい』って言ってもらえるような選手になりたいですし、そうして3000mSCをやる人が増えてレベルが上がっていけばいいかなって思っています」
その夢は、たしかに箱根駅伝よりも魅力的だ。しかし、箱根駅伝の連覇は黄金世代の活躍なくしてなし得ることは困難だ。とりわけ阪口は欠くことのできない絶対的な選手である。
日本記録を更新して、世界陸上で爪痕を残し、箱根駅伝でも快走を見せてほしい──阪口は間違いなく二兎を追える選手である。