平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン

【2004年9月 MotoGP日本GP】

 平成元年のロードレース選手権は、エディ・ローソンが4度目の年間王者に輝いたシーズンだった。それほど、31年間の平成を振り返るとなると、いろんな思い出がある。二輪ロードレースの世界を長く取材し、現地でさまざまな出来事を目撃してきたジャーナリストは、どのシーンを取り上げるのか。



ツインリンクもてぎのコースを玉田誠は誰もより速く走った

 二輪ロードレースの世界は、かつて「コンチネンタルサーカス」と呼ばれていたことからもわかるように、欧州文化ときわめて関わりが深い競技だ。

 時代を振り返る場合は、1980年代や90年代、2000年代といった、10年ごとの区切りで考えることが一般的だ。あるいは、最高峰クラスの技術仕様が2ストローク500ccから4ストローク990ccへと変更になり、競技の呼称もWGPからMotoGPへと移り変わっていった2002年を分水嶺とする区分も、明快でわかりやすいだろう。

 そこに、あくまで日本の国内的な時間尺度にすぎない「平成」という単位を持ち込むと、ルネッサンス史を日本の年号で語るのに等しい奇妙な違和感が生じる。平成、という時間軸で捉えるならば、日本人選手でいえば、平忠彦氏が資生堂Tech21レーシングで参戦していた時代からLCR Honda IDEMITSUの中上貴晶までを含んでしまうのだから、どうしても無理矢理感が生じるのはやむをえない。

 ただ、その間を振り返ると、中小排気量クラスでの日本人選手たちの台頭と圧倒的な活躍、3クラス9表彰台のうち8個を日本人が占めた2000年の鈴鹿など、さまざまな出来事があった。いくつかの悲劇もあれば、2011年東日本大震災直後の開幕戦で優勝したケーシー・ストーナーが「ガンバレ日本」と大書された日の丸を表彰台で掲げる感動的なひと幕もあった。

 それらの数々の出来事のなかから、あえてひとつを選ぶならば、ツインリンクもてぎで行なわれた2004年の日本GPを取り上げてみたい。

 この年、MotoGP参戦2年目の玉田誠は、全盛期のバレンティーノ・ロッシを相手に彼の地元であるイタリアのムジェロ・サーキットで互角の優勝争いを繰り広げ、注目選手のひとりとなっていた。1カ月後のリオGP(ブラジル)では、終始圧倒的なハイペースを維持してマックス・ビアッジに差をつけて独走し、MotoGP初優勝を達成した。

 そして、シーズン後半戦のポルトガルGPでポールポジションを獲得。決勝レースではロッシに先行を許して2位でゴールした。表彰式後の記者会見では、「2位を獲得できてハッピー。この表彰台は次戦の日本GPに向けても、いいはずみになる」と行儀のいい発言に終始したが、その後あらためて彼に話を訊きにいくと、微妙な苦笑をうかべ「やっぱりね、めちゃめちゃ悔しいですよ」、そう正直に述べた。

「ポールポジションからスタートしてるんだから、優勝しなきゃダメっすよね……。でもまあ、次のレースでは俺が勝ちますから」

 2週間後の日本GPは、初秋に相応しい晴天で3日間が推移した。

 土曜午後の予選で、玉田は2戦連続となるポールポジションを獲得。セッション終了寸前に最後のタイムアタックでピットアウトした際には、全区間で最速タイムを更新していった。

 この時、最後にコースに残って走行していたのは玉田のみ。サーキット中の注目を一身に集めながら、区間を通過するたびに最速タイムを意味する赤いヘルメットがモニターに表示されてゆく。その姿は、まるで花道をゆく千両役者のようだ。後に、あのピットアウトのタイミングは狙っていたのか、と訊ねると、少し悪戯っぽい笑みで「うん」とうなずいた。

 日曜の決勝レースも、玉田の独壇場だった。

 序盤はロッシがトップを走行したが、6周目に玉田が前に出ると、中盤周回以降は圧倒的なペースで淡々と引き離していった。最後はロッシに6秒以上の大差をつけてトップでチェッカー、シーズン2勝目を挙げた。振り返れば、まさに玉田のためにあったような週末になった。

 レースの後に玉田と何を話したのかは、なぜかまったく憶えていない。このレースでは、カワサキ移籍初年度の中野真矢が3位表彰台を獲得しており、そちらの取材でもあわただしい一日だったことは鮮明に記憶しているのだが。

 そして、このレース以降、日本人選手は現在に至るまで、最高峰クラスでは誰も表彰台の頂点に立っていない。