平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン 
【2003年8月 世界陸上パリ大会200m 末續慎吾】

 歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動……。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。現場で取材をしたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る――。

 日本男子スプリントの歴史の扉が開いた瞬間――。それは、2003年世界陸上パリ大会。200mで末續慎吾が銅メダルを獲得した時だった。短距離種目では、それ以前にも01年世界選手権エドモントン大会400mハードルで、為末大が3位入賞を果たし、世界大会において日本短距離界初のメダルをもたらしていた。だが、フラットレースでのメダル獲得は、それを上回る影響力があった。



2003年世界選手権200mにて、大混戦のなか見事3位に入った末續慎吾(左)

 末續はこの年、5月に100mで自己新記録(10秒03)を出し、200mも6月の日本選手権で20秒03と、日本記録を塗り替えていた。好調を維持しながら勝負をかけて出場した世界選手権で、200mでは世界ランキング3位、出場選手の中ではランキングトップという状態だった。

 その自信は予選の走りから出ていた。8月27日、朝に行なわれた一次予選は、外側のフランシス・オビクウェル(ポルトガル、自己記録19秒84)をとらえたところで力を抜いて、直線に出てから流す走り。そして、夜の二次予選ではラスト50mから流していた。世界大会で日本人選手が左右を見ながら、力を抜いて走る姿はこれまで見たことがなかった。

 当時、末續はその走りについて明るい表情でこう話していた。

「一次予選は5割くらいで、二次予選は8割くらいで走れたのは思い通り。たくさん練習をしてきたから別に驚くことはないし、自信もありました」

 28日の準決勝は無風の条件のなか、「スタートはちょっと遅れました。緊張したのではなく、フライングの判定が厳しいので少し遅れ気味に出ました」と冷静。ジョン・カペル(アメリカ)に次いで、20秒22の2位で決勝進出を決めた。

 準決勝のレース後には開口一番、「ここからです」と口にした末續。続けて、「準決勝止まりだった2年前の世界選手権のミックスゾーンで皆さんに(決勝進出を)約束したので、決勝に出られてよかった」と満面の笑みを浮かべた。

 指導する高野進コーチは、末續にこんなエールを送っている。

「私はファイナルを目指していた段階だったが、彼はその次の段階を意識して走っている。決勝は未知の世界なので大健闘になるか惨敗するかわからないですが、短距離は体の触れ合わない格闘技でもあるので、決勝という圧力の中でしっかり四つ相撲を取ったなという手ごたえを感じてくれればうれしい」

 ここまでの走りを考えれば、決勝で末續は5番手ぐらいになるだろうと予想されていた。しかし、29日の決勝舞台ではそれを覆す走りを見せてくれた。

 スタートからコーナー2番手で抜け出した末續は、直線に入ると後続選手に飲み込まれ、ゴール前では団子状態に。5番手くらいに位置していたが、そこからのラスト5mで抜け出すと、見事3位でゴール。20秒30で優勝したカペルとの差は0秒08。4位のダーレン・キャンベル(イギリス)とは0秒01差で、1位から5位までが0秒11内に入る大混戦だった。

 レース後、ミックスゾーンに現れた末續は、「100mを過ぎてから足が攣りそうになったので、わけがわからなかった。アイシングをしてきます」と言って一旦その場を去り、戻ってくると地面に座り込みながらも興奮気味にこう話した。

「結果が出るまでは、正直生きた心地がしなくて。ゴールの瞬間は自分がどうだったかわからなかったけれど、観客に『お前が3番だ』と言っている人がいて、電光掲示板を見ていて、3位と出た時はウソじゃないかと思って何度も確認してしまいました」

 その走りで足を痛めてしまい、翌日からの4×100mリレーには出場できなかったが、大会最終日の31日に末續に会うと「あんなに練習をしたのに、またリミッターを切って筋肉を傷めてしまいました」と言いながらも笑顔だった。

「(頭が)真っ白になっただけのシドニー五輪と違って、今度は冷静だったし、決勝だからそこでどんなレースをしたか覚えておこうと思ったんです。準決勝までを見ていて、1位になったカペルと2位の(ダービス・)パットン(アメリカ)は『動いているな』と思っていましたが、前半はカペルともそんなに離れていなかったので『よさそうだな』と思って。

 でも直線に出たら、足がグニュとなって頑張らなければと思った瞬間、今度は太腿にピクッときて。そこからは何も覚えてなくて、最後の3mくらいでフワーッと視界が戻ってきました。それで気がついたら頭を下げてゴールしていて。前にはふたりしか見えなかったので『アレッ?』と思ったけど、それから放心状態でした」

 最後に末續は、「自分がメダルを獲ったことで、これからは決勝に進む日本人選手も増えてくるのではないか」と話した。

 その言葉通り、今や桐生祥秀や山縣亮太らが、世界でメダルに絡む走りをしている。そして、この銅メダル獲得はリレーにも大きな影響を与えた。

 アテネ五輪から遡ること8年。96年アトランタ五輪では、朝原宜治と伊東浩司が好調な走りをして、朝原が100mで、伊東も200mで準決勝進出を果たした。2人とも惜しくも決勝進出とはならなかったが、この大会で、4×100mリレーを制したカナダの4走、ドノバン・ベイリーのラップタイムが8秒95と、驚異的なタイムだったと書いてある新聞を見て伊東が、「このくらいなら朝原も走れるんじゃない」と話しかけると、朝原も「そうだな」と軽く答えるくらい、自分たちに可能性を感じていた。

 そんな朝原と伊東に加えて、末續が急成長してきた00年シドニー五輪では、その年10秒11のタイムを出した川畑伸吾も現われ、4×100mリレーでも選手たちがメダルを意識するようになっていた。決勝は3走の末續が50m付近で太腿の肉離れを起こしたため6位だったが、その意識は選手たちの心に浸透していた。

 伊東が引退した後の01年世界選手権は、朝原と末續が中心になっていた。準決勝2位のタイムで進出した決勝では、3走の藤本俊之が朝原にバトンを渡す直前、インレーンの選手の腕が胸に当たるアクシデントで5位止まりだったが、それがなければ確実に銅メダルに届く力を持っていた。

 そんな「もう一歩」という殻が破れていなかった日本に、末續がもたらした銅メダルは大きな刺激となった。今では4×100mリレーは決勝進出常連になり、08年北京五輪の銅メダル(のちに銀メダルに繰り上げ)や、16年リオ五輪の銀メダル獲得につながっている。