西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(27)【ベテラン】ヤクルト・杉浦享 前編…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(27)
【ベテラン】ヤクルト・杉浦享 前編
四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。
1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。
1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の13人目。
第7回のテーマは「ベテラン」。西武・平野謙に続き、ヤクルト・杉浦享のインタビューをお届けしよう。
1992年の日本シリーズ初戦でサヨナラ満塁ホームランを放った杉浦
photo by Sankei Visual
球史に残る代打サヨナラホームラン
――1992年、そして翌1993年のスワローズとライオンズとの日本シリーズについて、みなさんに伺っています。杉浦さんはこの2年間のことをどのようにご記憶されていますか?
杉浦 もちろん、よく覚えていますよ。1992年初戦の代打サヨナラ満塁ホームランは、僕の現役生活の中でもっとも目立った瞬間だったし、1993年は日本一にもなったし、最高の2年間でしたからね。
――まさに、今回伺いたかったのは1992年シリーズ初戦の延長12回裏、ワンアウト満塁の場面についてです。このとき得点は3-3の同点。一打サヨナラの場面で代打として打席に入ったのが、杉浦さんでした。
杉浦 代打を告げられたときは、「えっ、オレ? 一番目立つ場面じゃん」と思いました(笑)。正直に言えば、「よし、やるぞ!」という気持ちよりは、むしろ「イヤだな」という気持ちでしたね。ひざから下はだるい感じで、体はカチカチ。足が震える感覚でしたから。
――マウンドに立っていたのは、かつて巨人時代にも対戦していた鹿取義隆投手でした。どんな思いで打席に向かったのですか?
杉浦 外野フライを打たせてはいけない場面なので、まずはカウントを取るためにアウトコース低めにくるだろうと考えていました。球種としてはストレートか、外に沈むシンカー気味の球か、そのあたりを意識していたと思います。
――鹿取投手の初球はアウトコースへシュート回転するストレートでした。これで、ワンストライクとなりました。
杉浦 初球がストライクとなったので、2球目はインコース高めにボール気味のストレートがくるか、それとも、ゴロ狙いのアウトコースのシンカーでくるか。そんな狙いでした。ところが、実際に投げたのは真ん中付近の甘いストレート。たぶん、指にかかりすぎたんだと思います。思わず「えーっ」ってなりましたよ。甘すぎて手が出なかったんです。カウントは早くもツーストライク。追い込まれてしまったので、ここで、打席を外しました。
――打席を外して、いったんリセットするとか、頭を整理するという狙いですか?
杉浦 このときは、「このまま何も振らずに終わったら、みっともないな」と考えていました(笑)。そして、ジャイアンツ時代の鹿取くんのことを思い出したんです。鹿取くんの場合、テンポよくポンポンとストライクで追い込み、その後はストライクゾーンからボールになる球でセカンドゴロとか、ショートゴロに抑えられていました。そんなことを、打席を外したときに思い出しました。この時点ではツーナッシングなので、「まだ低めでの勝負はないだろう」と考え、高めのボールに気をつけて打席に入り直しました。
――そうして投じられた3球目は高めのストレートでした。
杉浦 鹿取くんは力んだのかな、真ん中高めの絶好球でしたね。気がついたときにはバットが出ていて、ボールはライトスタンドに消えていました。打った瞬間、「オレはなんてことをしたのだろう」という思いでしたね。セカンドを回る頃にジワジワ感激してきて、半分泣いていました。「こんなすごいことをしていいのかな?」って、首をかしげながら泣いていました。
1978年日本シリーズでも同様の場面が……

当時を振り返る杉浦氏
photo by Hasegawa Shoichi
――実は1978年、スワローズ初優勝のときの日本シリーズ初戦でも、この1992年と似通った場面がありましたね。相手は、当時黄金時代を築いていた阪急ブレーブスの大エース・山田久志投手でした。
杉浦 そうなんです。のちに僕もそのことに気づいたんですけど、あのときも初戦の9回裏(二死満塁)でした。阪急の投手は山田さんで、カウントはツースリーが続いて、何とかファールで粘りました。途中にはライトポール際の大ファールも打ちました。それでも、山田さんは逃げずに真っ直ぐを投げ続け、僕はファールで粘る。その繰り返しでした。
――そして、投じられた11球目。杉浦さんの打球は(ボビー・)マルカーノへのファールフライ(二邪飛)となり、ゲームセット。スワローズは初戦を落としました。
杉浦 そうなんですよ。あのときは「ストレートがくる」とわかっていても、打ち返すことができなかった。でも、1992年のシリーズではきちんと鹿取くんの球を弾き返すことができました。「なんでオレって、こういう巡り合わせなんだろう?」と思いましたね。
――1992年のシリーズについて当時のスワローズナインにお話を伺うと、戦前には「4連敗するかも?」とか、「せめて1勝はしたいと思っていた」と話していました。杉浦さんはどのように見ていましたか?
杉浦 僕は、いい勝負をすると思っていましたよ。ヤクルトが初優勝したときの1978年のシリーズでは、王者・阪急ブレーブスに「絶対に勝てないだろう」と思っていたけど、このときの西武に対しては「互角だろう」という思いでしたね。
――その根拠は何ですか?
杉浦 確かに向こうもすごいけど、こっちだって戦力は充実していましたから。広沢(克己/現・広澤克実)、池山(隆寛)、飯田(哲也)と、意外性のあるいいバッターがそろっていましたし、(ジャック・)ハウエルもいいバッターでしたからね。このときの西武ナインはすでに大人の集団でしたけど、ヤクルトはまだ伸び盛りというか、まだまだ伸びしろがあるというか、”やんちゃ集団”でした。だから、勢いがつけば「ひょっとしたら?」という思いはありましたね。
引退決意を撤回させた「悔しい場面」
――結局、1992年は第7戦までもつれ込んだものの、3勝4敗でスワローズは敗れました。本当はこの年限りでユニフォームを脱ぐつもりだった杉浦さんは、野村監督に直訴して現役を続行することになりました。その経緯を教えて下さい。
杉浦 1992年シーズンはほとんど出番がないまま、シーズン終盤になって野村監督の恩情で一軍に上げてもらいました。でも、自分では「これが限界だろう」と思っていたので、カープとの最終戦には、(山本)浩二さんに「長い間、ありがとうございました」ってあいさつもしていました。でも、この日本シリーズで最後の最後に悔しい場面があって、「もう1年だけ続けさせてください」って直訴をしたんです。
――「悔しい場面」について、詳しく教えて下さい。
杉浦 1992年の第7戦、僕が代打で出た場面です。
――3勝3敗で迎えた第7戦。得点は1-1の同点、7回裏ワンアウト満塁の場面、代打で登場したのが杉浦さんでした。ここで杉浦さんは一、二塁間にゴロを放ちます。ライオンズのセカンド・辻発彦選手がこれを好捕。体勢を崩したままバックホームしました。送球は高めに浮いたものの、三塁走者の広沢選手がホームでアウトとなった場面ですね。
杉浦 初戦で満塁ホームランを打っていたので、「絶対に高めのボールはこないだろう」と読んでいました。そして、インコースだと抜け球が怖い。だから、外の低めを投げる可能性が高いと思っていました。そうなると、「外野フライを打つのは難しい。ならば、低めのボールを引っかけて、一、二塁間にゴロを打つしかない」と考えていたんです……。
(後編に続く)