平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン 【1997年10月 サッカーW杯予選vsウズベキスタン】 歓喜、…

平成スポーツ名場面PLAYBACK~マイ・ベストシーン 
【1997年10月 サッカーW杯予選vsウズベキスタン】

 歓喜、驚愕、落胆、失意、怒号、狂乱、感動......。いいことも悪いことも、さまざまな出来事があった平成のスポーツシーン。数多くの勝負、戦いを見てきたライター、ジャーナリストが、いまも強烈に印象に残っている名場面を振り返る――。

 平成元年(1989年)から平成30年(2019年)までの30年間で、サッカーそのものが一番面白いのはいま現在である。

 技術的にも戦術的にも、さらにはエンタメ的にもいまが最良だ。1990年(平成2年)のイタリアW杯の映像を見ても、あの頃はよかったと郷愁に浸ることはない。日本代表のサッカーもしかり。ドーハの悲劇(平成5年)、ジョホールバルの歓喜(平成8年)の映像を見返すと、プレーのレベルの低さに愕然とさせられる。

 しかし、それでも平成サッカー史30年の中で、総合的に面白かったのはこの頃だと言いたくなる。ドーハの悲劇からジョホールバルの歓喜を経てW杯初出場をはたした1998年(平成10年)に至る5年間は、事件性に溢れる混沌としたムードに包まれていた。

 韓国と共催で2002年W杯を開催することが決定していたことも、混沌を加速させる材料になっていた。W杯本大会に出場した経験がない国がW杯開催国になったことは一度もない。この前例に日本は苦しめられることになった。日本にあって韓国にないプレッシャーでもあった。



フランスW杯予選ウズベキスタン戦。日本は試合終了間際のゴールで同点に追いついた

 1998年フランスW杯アジア最終予選。日本はその韓国と同じB組(韓国、日本、ウズベキスタン、UAE、カザフスタン)に振り分けられた。当時のアジア枠は3.5。B組1位は本大会出場。2位はA組2位とのプレーオフ。それに敗れたチームは、さらにオセアニア代表とのプレーオフに回るという仕組みだった。

 日本は初戦、ウズベキスタンにホームで勝利。第2戦はUAEにアウェーで引き分け。そして3戦目の韓国とのホーム戦に1-2で逆転負けすると、順位は1位韓国(勝ち点9)、2位UAE(7)、3位日本(4)となり、加茂周監督更迭が囁かれることになった。

 4戦目と5戦目は中央アジア遠征。カザフスタン、ウズベキスタンとの連続アウェー戦だった。

 10月4日、アルマトイで行なわれたカザフスタン戦は、秋田豊のヘディングシュートで先制。勝ち点3は目前だった。ところがロスタイムに同点弾を浴び、日本は勝ち点を5にしか伸ばせなかった。

 日本は危険水域から脱せぬまま、予選の半分を折り返した。次戦のウズベキスタン戦に敗れれば、日本のW杯初出場は絶望的な状況になる。いよいよ土俵際に追い詰められることになった日本。試合後には、加茂監督が現地まで駆けつけた日本のサポーターにツバをかけられるという事件が勃発。更迭か否かの論議は山場を迎えていた。

 ほどなくすると、サッカー協会の広報担当者から、「いまからホテルで記者会見をするのでお集まり下さい」と連絡が入った。

 当時、海外に携帯持参で行く人はほとんどおらず、メールもポピュラーな伝達手段ではなかったので、連絡は口伝えだった。どこからともなく知らせが舞い込み、すぐに駆けつけたという記憶があるが、すべての報道陣に連絡が行き届いたという感じではなかった。会見室はそれほど混雑していなかった。

 発表したのは確か長沼健サッカー協会会長(当時)だったと記憶するが、加茂監督を解任すると発し、「次の監督は」と続いた瞬間も、その人物が、傍らに座る岡田武史さん(当時ヘッドコーチ)だと思った人はいなかった。「岡田」と言われて、報道陣は一様にエッと驚嘆することになった。

 それでもなお、岡田さんは一時の暫定監督だろうと勝手に推測していた。帰国後、ジーコなど、それなりの人と折衝するのだろうと。

 選手だった井原正巳と秋田豊は、加茂監督が監督解任になるらしいという話を聞いて、岡田さん本人に「次の監督、誰なんですか」と尋ねたそうだ。黙りこくるその岡田さんの顔色がとても悪かったので、どうなっているのか心配になったという。

 そうしたなかで「岡田」の名前を聞かされた選手たちは、彼らも一様に「エッ」と仰け反ったそうだ。というのも、当時の岡田さんはそれほど監督にはほど遠い雰囲気の持ち主だったからだ。いかにも監督然とした加茂監督とのパイプ役として、選手たちから親しまれていた。

 ところが監督になるや、岡田さんの態度は、別人格になったかのように一変した。まず選手たちに「岡チャン」と呼ばせなくなった。報道陣に柔和な表情を振りまくこともなくなった。厳しい練習に明け暮れた。遠征先では通常、練習は午前、午後、どちらか1回しか行なわないものだが、岡田監督は2回みっちりと行なった。選手は疲労の色を滲ませていた。
 
 そして、問題のウズベキスタン戦がやってきた。負ければ終わり。W杯出場は夢と消える。
 
 1997年10月11日。パフタコール・マルカジイ・スタジアムに現れた日本選手の身体は見るからに重そうだった。そして前半30分、相手に先制ゴールを許してしまう。時間はどんどん経過していった。

 この試合で、このまま敗れていれば、日本はフランスW杯には出場できなかった。日韓共催の2002年W杯は、日本開催分だけ、W杯本大会に出場したことがない国で初めて開催されるW杯になっていた。その後の日本サッカー史は大きく変わっていたことが予想される。そしてその後、岡田さんが2度目の日本代表監督に就くこともなかったに違いない。

 その12年後、岡田さんは2度目の日本代表監督として、このパフタコール・マルカジイ・スタジアムでウズベキスタンに勝利し、2010年南アフリカW杯本大会出場切符を獲得した。12年前にもし0-1のまま敗れ去っていたら、この史実も変わっていた可能性がある。

 時間は後半、ロスタイムに入る直前の出来事だった。時間がない日本は、最後尾から井原が前方へ、超ロングボールを蹴り込んだ。ボールは相手ディフェンダーと競った呂比須ワグナーの頭をかすめるように、ウズベキスタンゴール方向に転がっていく。

 呂比須がヘディングした場所からゴールまでの距離は20m?25mあった。三浦知良がそのボールを追いかけたものの、追いつかず、GKは楽々キャッチするものと思われた。

 そんなボールをウズベキスタンのGKがなぜ後逸することになったのか。井原が最後尾から蹴ったボールがほぼ直接、ゴールに吸い込まれることになったのか。

 GKがカズの動きに幻惑され、ボールから目を離したとしか言いようがないが、数ある観戦歴のなかでも、このゴールほど、不可解でミステリアスなものは珍しい。日本サッカー史に重大な影響を与えたゴールがこの有様では、大真面目にサッカーを論じることがバカバカしくなるほどだ。だが、それがサッカーの持つ恐ろしい魅力でもある。"事実は小説よりも奇なり"を地で行くゴールとはこのことだ。

 タラレバ話をしたくなる。あのゴールが決まっていなければ。普通にGKがキャッチしていれば......。

 岡田さんのその後の人生は、この運によって支えられているといっても言い過ぎではない。日本サッカーもしかり。サッカーは結果に対して運の占める割合が3割あると言われるが、平成サッカー30年史を語ろうとしたとき、これは外せない珍事と言えよう。だが、なぜか皆、この件にはあまり触れたがらない。いまだキチンと向き合えずにいる。

 ただし、この引き分け劇で日本は絶望の縁から脱したわけではなかった。ソウルで韓国と戦った第7戦も忘れることができない一戦になる。首位通過を決め、すでに本大会出場切符を得ていた韓国が、メチャクチャ優しい態度で日本を迎えてくれたことは、嬉しい大誤算だった。

 日本はこの試合に2-1で勝利したが、韓国からプレゼントされた勝利のような気がしてならなかった。「2002年W杯共催国として、フランスW杯に一緒に行きましょう」的な、若干こそばゆい気さえする歓待ぶりだった。これもあまり触れたくない過去かもしれないが、現地取材をとおして得た実感だ。

 日本はこの韓国戦の勝利で勝ち点を10に伸ばしたのに対し、ライバルのUAEはウズベキスタンに引き分け、勝ち点は9止まり。日本はUAEをかわし3位から2位に順位を上げた。そして国立競技場で行なわれた最終戦のカザフスタン戦に5-1で圧勝。その8日後、ジョホールバルで行なわれるイランとのプレーオフに駒を進めることになった。

 1998年フランスW杯予選を振り返ろうとしたとき、まず取り沙汰されるのはジョホールバルの歓喜になる。だが、僕がサッカー史という試験の問題作成者なら、設問はタシケントで行なわれたウズベキスタン戦についてとする。忘れるべきではないのは、サッカーの不可思議さを象徴するようなこの一戦だと言いたい。