西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(26)【ベテラン】西武・平野謙 後編()…

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(26)
【ベテラン】西武・平野謙 後編

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あえて初戦を捨てることで、いろいろ見えてくる

――2年連続で、日本シリーズで激突することになったスワローズについて、当時はどのような印象を持っていましたか?

平野 ヤクルトも、かなり個性の強いチームだったという印象があります。まぁ、一番個性が強かったのが野村(克也)監督でしたけど(笑)。西武と比べられることもあったかもしれないけど、1992年、1993年と2年続けて日本シリーズに出ているわけだから、すでに完成された成熟されたチームだったと思いますけどね。

西武の

「つなぎ役」として活躍した平野

 photo by Sankei Visual

――西武に移籍する前に、平野さんが中日ドラゴンズに在籍していた頃と比べて、スワローズに変化はありましたか?

平野 ピッチャーで言えばクイックモーション、野手で言えば走塁面での細かいプレーが徹底されていたように思います。僕が中日に在籍していたのは1978年から1987年までだったけど、当時のヤクルトはその辺はまだできていなかったので。

――この連載において、当時、サードコーチだった伊原春樹さんは「ヤクルトをなめていた」と言い、他の選手たちは「短期決戦はやってみないとわからないから、相手をなめることなどなかった」とコメントしていました。さらに、野村監督は「西武に勝てるはずがない」とも言っていましたが、平野さんはどう思っていましたか?

平野 伊原さんはそう思ったのかもしれないけど、僕ら選手はそんなことはなかったと思いますよ。そして、野村さんの発言は絶対にウソですよ(笑)。戦力的、状況的に不利だとしても、監督自ら、「勝てるはずがない」とは思わないですから。……いや、待てよ。僕は今、独立リーグ(群馬ダイヤモンドペガサス)で監督をしているけど、普段から「勝てるぞ」とは思っていないな(笑)。僕自身のことで言えば、油断もしないし、相手をなめたりもしなかったです。実際にプレーする選手たちは、そういう感覚はないと思いますね。

――森祇晶監督は「2戦目重視」の姿勢を打ち出し、1992年も1993年も郭泰源投手が先発していました。現在、群馬ダイヤモンドペガサスの監督を務める平野さんとしては、この考え方についてどう思いますか?

平野 今、自分が監督をしていて感じるのは、言葉は悪いけれども、「1戦目を捨ててもいい」という気持ちで試合に臨むと、意外と相手の戦力分析ができるものだということです。試合を通じて、「データはこうだったけど、実際はこうなんだな」とか、「こいつはデータ以上に要注意だ」という発見があるんですよ。つまり、初戦の中にすべての情報があるから、それを2戦目で生かせるということ。1戦目はもちろん大切なんだろうけど、それを犠牲にしてまでも2戦目を取りにいくという考えもあると思います。

――ダイヤモンドペガサスの監督経験を通じて、そう感じますか?

平野 感じますね。BCリーグは東地区と西地区の覇者同士で優勝決定戦を行なうんですけど、昨年は東がうちで、西が福井(ミラクルエレファンツ)だったんです。うちには(アレックス・)トレースっていうエースがいるんですけど、僕は彼を2戦目の先発に起用しました。初戦を捨てるつもりでやると、割とやりやすいんです。このときも初戦を取ったおかげで2戦目も勝利して、そのまま最後まで勝つことができましたから。

――平野さんも、森野球の「2戦目必勝主義」を継承されていたんですね。

平野 そんな意識はなかったんですけどね。日本シリーズの話で言えば、泰源は常に淡々と投げることができるピッチャーで、自分に与えられた仕事をきちんとやり遂げるというタイプ。だから、監督としても頼りになったんで、2年続けて泰源が2戦目の先発になったんじゃないですか?

「森野球」とは、手堅い作戦による「負けない野球」

――6年間、森監督のもとでプレーをしましたが、あらためて「森野球」とはどんな野球だったと思いますか?

平野 いろいろな野球があるけど、森さんの野球は「負けない野球」です。僕も今、監督として選手たちによく「打ち勝つ野球というのは、しょっちゅうできるものではない」と話をします。ピッチャーがしっかり投げて、しっかり守って、何とか最少得点差、僅差で勝つ。それが森さんの野球だと思います。ピッチャーは先取点を取られないように何とか頑張る。野手は何とかして先取点を奪うために、自分の役割を演じる。そういう野球でしょうね。


映像を見ながら当時を振り返る平野氏

 photo by Hasegawa Shoichi

――となると、かなり手堅い野球になりますね。

平野 そうですね。僕の記憶では、試合の序盤、点差がついていないときは、僕の場合はバントばかりでした。点差が開いていないときにバント以外のサインが出たことは、ほぼなかったんじゃないかなぁ? 積極的に動くのは、ある程度の点差が開いて優位な展開になった試合の中盤、終盤になってからという感じですね。投手の継投もまさにそう。僕自身も、選手たちには「負けない野球をしよう」と言っています。

――選手としては自分の役割が明確で、やるべきことが決まっているほうが心理的にもラクなのでしょうか?

平野 それはラクですよ。たとえば、ネクストバッターズサークルからバッターボックスに行く間に、「この場面のオレの役割はバントだな」って思いますよね。そして、サードコーチャーのサインを見ると、やっぱりバントのサインが出ている。自分の考えとサインが一致したときには「ラク」というよりも、格段に失敗は少ないものなんです。まぁ、僕の場合はほぼバントのサインだったから、ベンチと自分の考えが一致するに決まっているんだけど(笑)。

――確かに「平野謙=バント」という印象がありますね。

平野 でも、それでいいんです。何度も言うように、役割が明確であれば失敗は少ないんですから。逆に、「えっ、ここでバントのサインなの?」という気持ちで打席に入ったら、失敗の可能性が高くなりますから。

両雄の対決は五分と五分の痛み分け

――この2年間の日本シリーズについて、印象に残っている試合、忘れられない場面などはありますか?

平野 ……うーん、何も思い出せないですね。正直なことを言えば、この年のシリーズのことはあまり覚えていないんです(笑)。

――これまで、ライオンズとスワローズと何人もの方にお話を聞いてきました。みなさん、最初は「よく覚えていない」と言いつつ、話しているうちにディテールがよみがえってきたのですが……。

平野 へぇ、そうなんだ。ごめんなさい、僕はほとんど覚えていないです。印象に残っていないのは、自分が(試合に)あんまり出ていないからなのかな? 中には、そういうヤツもいるんだということは覚えていてよ(笑)。

――1992年は第5戦まではフル出場したものの、第6戦は途中出場、第7戦は出場していません。1993年は第4戦まではフル出場、第5戦、6戦は途中交代、第7戦は不出場です。

平野 そして、1993年の日本シリーズ後に、僕は西武を自由契約となって、次の年からはロッテに移籍する。シリーズ中には移籍の予感なんてまったくないから驚きましたよ。シリーズ後に「来年の契約はしない」と言われたので、自分から「任意引退ではなく自由契約にしてほしい」と球団に言いました。自分としては、気力、体力すべてがダメになって、「もう辞めるしかない」というところまで頑張りたかったので。ロッテに移籍して西武と対戦したときには、「こんなチームに勝てるわけがないよな」っていうぐらい、西武は大人のチームでしたね。

――これはみなさんに聞いているのですが、この2年間の両者の対決は全14試合で7勝7敗でした。ライオンズとスワローズの激闘は、決着が着いたのでしょうか?

平野 五分五分、痛み分けでしょう。ただ、「7勝7敗」と言っても、すべて違うもので、一緒ではないですよね。1992年に西武が勝ったときには西武のほうが強かったんだろうし、翌年は(オレステス・)デストラーデが抜けたり、平野謙の衰えがあったりして、ヤクルトのほうがチームとして上回っていた。そういうことだと思いますね。