連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第3回:山田久志(前編) 派手なファインプレーは誰が見てもわかる。優勝の瞬…
連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第3回:山田久志(前編)
派手なファインプレーは誰が見てもわかる。優勝の瞬間のヒーローもまた万人は知る。しかし、その場の勝利は遥か彼方にありながら、創成期や過渡期のチームを支え、次世代にバトンを渡すために苦闘した人物に気づく者は少ない。礎を自覚した人は先を見据えた仕事のしかた故にその結果や実績から言えば凡庸、否、惨憺(さんたん)たるものであることが多い。しかし、スポーツの世界において突然変異は極めて稀である。チームが栄光を極める前に土台を固めた人々の存在がある。「実はあの人がいたから、栄光がある」という小さな声に耳を傾け、スポットを浴びることなく忘れかけられている人々の隠れたファインプレーを今、掘り起こしてみる。
連載3回目は、2002年から2003年9月まで中日ドラゴンズの監督を務めた山田久志。

2001年。谷繁元信がFAで中日に入団。その左で笑顔を見せる山田久志。
2004年から8年間、ドラゴンズを率いた落合博満の監督としての成績は、リーグ優勝4回、2位3回、3位1回、そして日本一が1回。すべてがAクラスで名将の名をほしいままにしている。しかし、この黄金時代に至る礎を作った前任者がいる。
前任者は、谷繁元信を横浜ベイスターズからFAで獲得した。見落とされがちだが、この大仕事は歴史を作った。
さらに当時、内野手だった福留孝介を外野にコンバート、それまで外野との併用も多かった荒木雅博と井端弘和を内野に固定して、通称”アライバ”の二遊間を構築する。
そして言わずと知れた岩瀬仁紀を筆頭とする投手陣の育成。ブルペンを整備して投手王国の礎を築き、以降10年以上、安泰となった中日のセンターラインを固めた人物である。
前任者、現役時代284勝を上げた山田久志は阪急ブレーブスの大エースで、中日とは縁もゆかりもなかった。それを星野仙一監督が第二次政権時代(1987-1991年)に三顧の礼をもって投手コーチとして迎え入れた。
山田は星野の前にジャイアンツの長嶋茂雄監督からピッチングコーチのオファーを受けながら、家庭の事情でこれを断っている。
この誘いは、当時ジャイアンツのオーナーだった渡邉恒雄直々の指名であった。ミスター(長嶋)は言った。
「山ちゃん、これは渡邉会長の直々の指名なんだよ。山田を獲れと」
それ故か、条件は破格で、年俸の他に世田谷に50坪の土地付きの家を一軒、提供(貸与ではなく、文字どおり贈与)するというものであったが、それでも固辞した。
ミスタープロ野球、長嶋の誘いを蹴りながら他球団に行くという不義理は山田の本意ではなかったし、ドラゴンズの提示条件はもっと低かったはずである。そこを稀代のオーガナイザー、星野は口説き落とした。
星野が山田の手腕に惚れ込んだのは、山田がNHKの解説者時代に、中日の沖縄キャンプの視察を依頼してその感想に触れた時と言われている。
「どうだ?」と聞かれて、山田は直言した。「こんな練習じゃあダメです」「いや、俺はやらせてるつもりだけどな」「すべてにおいて甘いです」ただ無駄な時間を過ごしているという感じが山田にはあった。
中日というチームはOBがコーチのポストを占めることが多く、慣れ合いが常だった。星野自身、現役時代は午前11時には宿舎に上がっていたという。外の血を入れなくてはこのチームの改革は出来ないと、星野は自著でも語っている。
山田は星野が勇退後、跡を継ぐ形で2002年に監督に就任。経緯から見ても明らかのように、星野のバックアップが約束されていた。星野は自分が培ってきた野球を託せるのは、山田しかいないということで監督の座を禅譲したのである。
ところが、その星野が急遽阪神タイガースの監督になってしまう。元々が外様である山田は後ろ盾を失い、組織内において完全アウェー、孤立無援の立場に置かれる。それでも粛々と前年度5位に終わったチームの改革に着手して、Aクラスに浮上させ幾つもの種を植えた。
しかしながら、花が咲くその前に3年契約の途中で解任されてしまう。
あれから、16年が経過した。あらためてその足跡を検証する。
――まず、ジャイアンツよりもドラゴンズを選んだ理由はどのようなものだったのでしょうか。条件面で言えば、誰もが前者を選んだと思うのです。
「仙さんには何回も断りを入れていたんだけど、あの演技力と話術には負けました。やっぱり涙を流されたら…。同期とは言え、先輩じゃないですか。ミスターにも断っていますし、と言うと『今から俺がミスターに言ってくる。(解説をしていた)NHKにも言ってくる。俺に任せてくれ。それならいいか?』って。最後は『あなたにそこまでやってもらわなくたって、私が行きます』と」
――ピッチングコーチ、ヘッドコーチを経て監督に就任してすぐに、ドラゴンズ10年の計で、名古屋に縁もゆかりもない谷繁をFAで獲得しました。当時、中村武志という地元ファンにも人気のあった不動のキャッチャーがいる中での英断は、大きなバッシングも受けました。OBや球団にどっぷりと浸かっている人ならば、絶対にできなかった改革ですが、結果的にこれがなければ黄金時代は築けなかった。
「中村もまだまだレギュラーを張れる力はあったんだけれども、いろんな故障が出てきていたし、センターラインを強化せんことにはこのチームの未来はないと思っていたからね。私はピッチャー出身だから余計に二番手のキャッチャーの弱さも見えた。中村には伝えたんです。『実は谷繁を取りに行くんだけれども、お前は強力な二番手として助けて欲しい。それでコーチ業をつけるから、その役割をしながら貢献してくれんか』と。だけど、『いや、私はまだ現役で勝負したいんです』ということで横浜に出したんです」
――基本はまず、谷繁を入れるということだったんですね。
「そうです。ドラゴンズの先を考えたときにせっかくいい素材のピッチャーがいるのにこのままでは伸びない。谷繁には注意したことがあるんだけど、若手のピッチャーで経験のない者をあんまり怒ったらいかんと。教えるのは構わないけど、怒ったら委縮してしまうから、そこはちゃんとメリハリをつけてやってくれよと」
――谷繁がピッチャーを育てたという意味でも大きかったですね。いかにして説得したのでしょう。
「谷繁に言ったのは『名古屋って、おそらく今、君が思っているように難しいところだよ』と」
――「難しいところだ」と?
「ズバリ言ったよ。その代わり、うまく街やチームに溶け込んだら、街が全体的に認めてくれる、これは他のところにはないぞと」
プライドをくすぐるわけではなく、むしろ挑発するようなニュアンスが谷繁にはフックしたのだろうか。コーナーストーンが決まれば、次は二遊間への着手だった。
――アライバコンビが生まれた経緯を教えてください。
「当時、立浪(和義)は膝の故障があって、そして福留のショートは無理だと。で、二宮(至)コーチが『福留は外野という考えはないですか?』と言ったんです。ライトの提案だったけど、私のライトのイメージはイチローだったからね。でも、もしこのコンバートが成功すれば、立浪のサード、(レオ・)ゴメスのファースト、福留の外野が埋まって、あとはショート、セカンドだけ。むしろ消去法だったけど、アライバは孝介と立浪の副産物です」
――立浪は選手生命を伸ばし、福留はコンバート1年目で首位打者を取りました。ショート井端、セカンド荒木という特性はどこで見抜いたのでしょうか。
「最終的には肩ですね。肩の強さはそんなに変わらないんだけど、送球の確実さというのはやっぱり井端だった。ショートはスローイングだからね」
――特性という点で言えば岩瀬のポテンシャルが、リリーフにあると考えた大きな理由はどこにあったんでしょう。
「岩瀬は、新人時代3月のオープン戦であのスライダーを右バッターがみんな振るんだよね。右でもこのスライダーは通用するんだと確信して、次はポジションをどこにするか。性格的なもので、怒られても褒められても我関せずみたいな感じのところがあるのと、ギャンブルが好きでお酒を飲まない。これはリリーフピッチャーにいい面だった。全部備わっているなと。抑えは宣銅烈(ソン・ドンヨル)がいたから、その前(セットアッパー)。ブルペンは落合英二がうまいことみんなをカバーしてくれていて、あの投手陣は強かったね」
――指導者となった落合英二は今でもコーチの残像としていつも山田さんを追っていると公言しています。
「英二は私にとってはものすごくやりやすい選手で。ここは嫌だなと思っていても、それを顔に出さずにやってくれたし、私の意図を投手陣に伝える役目でした。それで雰囲気づくりをしてくれました」
幾人もの新人を入団時からリリーフとして育て、開花させた。孤軍奮闘する中で山田は先を見越した土台を作っていく。しかし、球団側はけしてそれに見合うバックアップをしてきたとは言い難かった。
(つづく)