西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(22)【伏兵】西武・笘篠誠治 後編()コ…

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(22)
【伏兵】西武・笘篠誠治 後編

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コンマ数秒のタイミングでスタートが遅れた

――1993年の日本シリーズ第4戦。0-1で迎えた8回表、ツーアウト一、二塁の場面。三番・鈴木健選手はセンター前にヒットを放ち、二塁走者である代走の笘篠さんはホームに突っ込みます。ここで、「痛恨のミスを犯した」とのことですが……。

笘篠 このとき、バットに当たった瞬間に、僕は「センター前ヒットだ。(ホームに)返れる!」と思いました。でも、スタートがちょっと遅れているんです。本来ならバットに当たる直前でスタートを切らなければいけないんですよ。でも、僕の感覚で言えば、バットに当たった、ボールがバットから離れる。この瞬間にスタートを切った。それじゃ遅いんです。多くの人は気づかないかもしれないけど、わかる人が見ればわかるミスです。




1993年の日本シリーズ第4戦で、古田(右)にブロックされてアウトになった笘篠(左)photo by Sankei Visual

――この場面はツーアウトでしたから、ライナーバックの必要もなかったわけですよね。

笘篠 ないですね。打ったらそのまま走ればいい場面です。でも、僕のスタートは若干遅れてしまった。僕は今でも、「何であんなスタートになっちゃったんだろう?」って、よく考えるんですけど、わからないんですよ。

――ご自身にしかわからない「スタートの遅れ」は、結果的にどのような影響をもたらしたのですか?

笘篠 スタートが遅れたことで、少なくとも「一歩」は絶対に遅れています。僕は、この時点で「ヤバい!」と思いながら加速していきました。(鈴木)健の打球は詰まっていましたから、「絶対にセンター前に落ちるだろう」と思っていました。同時に、「(サードコーチの)伊原(春樹)さんは絶対に回すだろう」とも思いました。だから、サードを回るときもまったく減速することなく、さらに加速をしました。

――この場面、伊原さんは「可能性は五分五分だと思った。五分五分ならば笘篠が何とかしてくれるだろうと思った」と言っていました。

笘篠 五分五分ならば走らせる。それは正しい判断だと思います。僕でも、そうします。

「12球団で一番の打球判断ができる」と自負していた

――センター・飯田哲也選手からの返球はノーバウンドのダイレクト送球でした。それは想定されていましたか?

笘篠 想定していました。飯田の肩を考えれば、「絶対にカットプレーはないだろう」と思っていました。でも、ノーバウンドであのコントロールということは、僕の想定よりもすごい球がきたんでしょうね。サードベースを蹴ったとき、(キャッチャーの)古田(敦也)の構えと目に注目していました。捕球態勢に入っている古田の視線の先を見て、「おっ、もうボールがきているのか」と思って、「古田をかわして手でベースタッチにいこう」と考えました。でも、間に合わなかったんです。その前に飯田の返球が届いていました。

――思った以上に早く、飯田さんのボールがきていたのですね。

笘篠 そうです。それで、瞬時に走路を変えました。正面からタックルにいくのではなく、手で(ホームベースを)払うことにしたんです。でも、間に合わなかったですね。まだコリジョンルールがなかった頃ですけど、古田に見事にブロックされてしまいました。


映像を見ながら当時を振り返る笘篠氏

 photo by Hasegawa Shoichi

――結局、試合はこのまま1-0でスワローズが勝利します。「走塁のプロフェッショナル」としての代走起用でありながら、ホームでアウトになってしまった。このときの心境はどのようなものでしたか?

笘篠 「やっちゃったな……」という感じですね。自分では「絶対にセーフだ」と思っていたのに、スタートが遅れてアウトになってしまったんですからね。スタートを除けばノーミスでした。でも、最初のスタートの出遅れが、そのまま結果につながってしまった。そんな感じですね。

――失敗が許されない「代走」という役割だからこそ、責任感もより大きいんですね。

笘篠 この世界はゲームに出なければお金にならない世界です。だから、「どうやったら、試合に出られるのか?」を常に考え続けて、走塁技術を磨きました。当時の西武の選手はみんな走塁意識が高かったけど、僕は「自分が一番だ」と思っていました。打球判断に関しては「12球団で一番だ」と。それだけの練習をしてきたという自負がありましたから。だから、この場面で僕がセーフになっていたら、シリーズの流れは全然違ったと思います。

今でも、「あの日の、あのプレー」を思い出す

――あらためて、激戦となった1992年、1993年日本シリーズを総括していただけますか?

笘篠 最初に思うのは、弟(笘篠賢治)と一緒に日本シリーズに出られたというのが、一番うれしいことですね。両親もとても喜んでいました。1992年は僕と弟、両方の応援をしていたようです。でも僕は1993年に、両親に「オレは去年、もう勝っているから、今年は弟を応援してやってくれ」って言ったんです。その本心としては、「たとえ両親が弟の応援をしたとしても、どうせ西武が勝つだろう」と思っていたからです(笑)。

――前回の話にも出ましたが、笘篠さんご自身が「西武の強さ」に対して、揺るぎない自信を持っていたんですね。

笘篠 そうですね。「西武は強い」と心から信じていましたから。結果的に1993年はヤクルトが日本一になったけど、それでも「西武は強い」と僕は思っていましたね。それに、このシリーズを通じて「やっぱり野球はピッチャーだ」とも思いました。いいピッチャーが出てくれば、そう簡単に打たれない。それをつくづく感じましたね。1992年は岡林(洋一)、そして1993年は(川崎)憲次郎のボールはすごかったですからね。

――この2年間のシリーズは、後の笘篠さんの野球人生にどんな影響を与えましたか?

笘篠 勉強になったのは、やっぱりあのスライディングですね。「こういうことは二度とやってはいけない」と教訓になりました。「一歩の遅れが、とんでもない結果になってしまう」ということを学びました。だから、その後はもっと走塁練習に励んだし、そのおかげで、今こうして各球団で、守備走塁コーチとしてやらせてもらっているんだと思いますね。

――結果としてアウトになったけれども、笘篠さんの走塁も、飯田さんの返球も、古田さんのブロックも、みんなプロのすごみを感じさせてくれる忘れられないプレーとなりました。

笘篠 僕もそう思います。だから、スタートが遅れるというミスを犯したけれども、僕は全然恥じてはいないです。ただ、今でもときどきこの日のプレーを思い出すんです。僕は今、(楽天で)サードコーチャーを任されていますけど、試合をしていて、選手たちのスタートが少し遅れることがあるんです。そういうときに、僕はあの日の自分を思い出すんです。あの日のことが脳裏によみがえってくるんです。

――笘篠さんにとっては、「忘れられないプレー」となったんですね。

笘篠 今もこうして、あの日のことを聞かれたり、あの場面をテレビで目にしたりすることもあります。アウトになったけれども、それはうれしいことですよ。若い選手たちに、「笘篠さん、映ってましたね」なんて言われることもありますから。先ほど、「全然、恥じてはいない」と言ったけど、それでもやっぱり、いまだにいろいろなことを思い出すし、いろいろなことを考えさせてくれるプレーとなったのは、まぎれもない事実ですね。