西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(21)【伏兵】西武・笘篠誠治 前編() …

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(21)
【伏兵】西武・笘篠誠治 前編

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 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載の12人目。

 第6回のテーマは「伏兵」。代走や守備固めとして、勝敗の行方を左右する大事な場面で登場した男たちのひとり、西武・笘篠誠治のインタビューをお届けしよう。


ヤクルトに入団した弟・賢治と共にプロ野球で活躍した笘篠誠治

 photo by Sankei Visual

弟・賢治との「兄弟対決」が楽しみで仕方なかった

――1992年、1993年の日本シリーズはライオンズとスワローズとの息詰まる熱戦となりました。当時のご記憶はありますか?

笘篠 よく覚えていますよ。この頃、弟(笘篠賢治)がヤクルトにいたので、「とにかく負けられない」という思いが強かったですね。弟はレギュラークラスの選手でしたから、うちの投手陣には、「弟だけにはヒットを打たせないでくださいよ」とミーティングでしょっちゅう言っていました(笑)。

――当時の記事を読むと「兄弟対決」というフレーズが紙面に踊っていますね。

笘篠 弟が大学からヤクルトに入ったときに、「2人が現役を引退するまでに、一度は日本シリーズで戦いたいよな」と話しました。当時の西武は黄金時代だったけど、ヤクルトはずっとBクラスが続いていたので、「うちは毎年(シリーズに)出るんだから、何とか一度でいいから、ヤクルトに優勝してほしい」と。

――1992年にスワローズが、14年ぶりにリーグ制覇を決めました。ついに「兄弟対決」が実現したわけですね。

笘篠 初めて対決が実現するということで、楽しみで仕方なかったです。たぶん、弟はスタメンで出てくるだろうと思っていたので、「普段とはかなり雰囲気は違うけど、緊張するなよ」ってアドバイスしたことを覚えています。

――1990年、1991年と日本一に輝き、この頃のライオンズは黄金時代の真っ只中にありました。当時のライオンズの雰囲気、そして対するスワローズの印象はいかがでしたか?

笘篠 「日本シリーズは勝てるものだ」と思っていましたし、ヤクルトに対しても”強いチーム”という印象はなかったです。極端な話、「普通に戦えば全勝できるんじゃないの?」と思っていました。当時のことを弟に聞くと、「この頃のヤクルトは団結力があった」と言うんですけど、西武の投手と野手陣の団結力はそれ以上に強かったんじゃないでしょうか。「西武は負けない」って心から思っていましたけど、それは「ヤクルトが弱い」という意味ではなくて、「西武が強すぎる」という意味ですね。

工藤公康、郭泰源、渡辺久信のすごさ



現在は楽天の一軍外野守備走塁コーチを務める笘篠氏 photo by Hasegawa Shoichi

――当時のチームメイトについてはどんな印象をお持ちでしたか?

笘篠 当時のうちの強さを支えていたのは、やっぱり投手陣です。センターの守備についたときにピッチャーのボールの軌道を見るのはすごく楽しかったですよ。工藤(公康)さんのカーブなんて、すごい曲がりをしますから。「あれじゃあ、相手チームは打てないよな」って、いつも思っていました。あんなカーブは見たことがなかったです。

――郭泰源投手や、渡辺久信投手はいかがでしたか?

笘篠 泰源は、どの球種でも「これは打てない」というボールを投げていました。スライダーだけじゃなくて、全球種が一流でしたね。ストレートも速かったので、「一度、150キロを投げてみてよ」と頼んだことがあったんですが、本人は「150キロを投げなくても抑えられるから、無駄な力は使いたくないんだ」って言っていました。(渡辺)久信の場合は”荒れ球”が武器になっていたんじゃないかと。確かに最多勝も獲っているけど、「投げてみないとわからない」のがよかったんだと思います。

―― 一方のスワローズ投手陣に対する印象はいかがですか?

笘篠 1992年の岡林(洋一)はすごいと思いましたね。事前のミーティングでビデオを見たときは、「これはちょっと手こずりそうだな」と思いました。と同時に、「自分は打席に立たせてはもらえないだろう」とも考えていましたが(笑)。実際にシリーズが始まってからも、うちの選手たちが「やっぱり、いい球を投げるな」と口を揃えていましたね。

――結果的に1992年は第7戦までもつれて、4勝3敗と薄氷の勝利でした。それでもやっぱり、「西武が強い」という信念は揺らぎませんでしたか?

笘篠 まったく揺らがなかったですね。1993年はヤクルトに3勝1敗とリードされたけど、そのときでさえ「絶対に3勝3敗に追いつくだろう」と思っていました。そして、実際に3勝3敗になったときに、「当然、第7戦はオレたちが勝って日本一になるだろう」って。結局、ヤクルトに負けて日本一は逃したけど、「日本シリーズで西武に勝つヤクルトもすごいな」と思ったことを覚えています。それぐらい強かったんですよ、うちは。

伏兵・笘篠誠治が主役に躍り出た「あのプレー」

――さて、1993年日本シリーズでは、伏兵である笘篠さんが主役となった「あのプレー」について伺わなければなりません。

笘篠 飯田(哲也)の好返球ですね(笑)。僕にとっても、このプレーだけは忘れられないプレーです。

――スワローズの2勝1敗で迎えた第4戦。先発した川崎憲次郎投手の好投もあって1-0とスワローズがリード。8回表、ツーアウト一、二塁の場面で、二塁走者は代走の笘篠さんでした。ここで、バッター鈴木健選手がセンター前にヒットを放ち、笘篠さんは迷わずにホームを狙うも、センター・飯田選手のダイレクトバックホームもあって間一髪でアウト。そのままライオンズは敗戦。1勝3敗と王手をかけられることとなりました。塁上では、どんな意識でしたか?

笘篠 一打同点、長打が出れば逆転の場面で、僕は二塁ランナーでしたから、「ワンヒットでホームに返ろう」としか考えていませんでした。外野手の位置を見ると、それほど前進守備を敷いていなかったから、「(鈴木)健が外野の前に落としてくれれば、ホームに戻れるな」という意識でしたね。

――この連載において、当時、ライオンズのサードコーチだった伊原春樹さんは「セオリーで言えば、もっと前進守備でもいい場面」と言っていました。後に、守備走塁コーチを務めることになる笘篠さんはどのように考えますか?

笘篠 「1点もやれないから、前進守備にする」という考え方と、「同点は仕方ないけど、絶対に逆転は許さない」という考え方とで、守備位置の指示は変わってきます。普通に考えると、後ろに守らせる監督が多いんですかね。勝負をかけるのであれば、もっと前に守らせますけど、このときの飯田は極端に前には来ていなかった。それが、結果的に明暗を分けることになりましたね。

――どういうことでしょう? 詳しく教えてください。

笘篠 飯田が極端な前進守備をしていたならば、飯田の脚力から考えてみても、健の打球はセンターフライでチェンジでした。仮にヒットになったとしても、セカンドランナーの僕も、サードコーチの伊原さんもサードでストップしていたと思うんです。でも、「飯田はそれほど前に出ていない」ということを、僕も伊原さんも事前に確認していた。そして健がヒットを打ったから、伊原さんは右手を回したし、僕も初めからホームに突入するつもりで加速をしました。でも、僕はこのとき、痛恨のミスを犯してしまうんです……。

(後編に続く)