ジェイ・ブルースがオフにニューヨーク・メッツからシアトル・マリナーズにトレードで入団した際、若い選手たちを支える役…

 ジェイ・ブルースがオフにニューヨーク・メッツからシアトル・マリナーズにトレードで入団した際、若い選手たちを支える役を買って出るつもりだった。32歳のブルースは、マリナーズの40人枠のなかで3番目に年上の選手。しかも野手18人のうち12人は1990年代生まれなので、ベテランの存在はチームにとっても大きなものとなる予定だった。



シーズンオフにトレードでメッツからマリナーズに移籍したジェイ・ブルース

 だが、若手に影響を与えるどころか、ブルースはひとりの選手から刺激を受けたという。その選手とは、45歳にして招待選手としてキャンプに参加していたイチローだった。

「私はこのチームでは、ベテランのひとりなのですが、私よりも14歳年上の選手がいるというのは信じられないことです。それに彼は、この間、オープン戦で盗塁したんですよ。別の世界で存在していると感じているのに、毎日同じグラウンドで練習しているというのは、やっぱり刺激になります。

 イチローがメジャーに来てから、1年目に新人王を獲得しながらMVPも獲り、その後も10年連続オールスター出場、10年連続シーズン200安打など……そういう選手はほかにいません。それに2004年にはこれまでの記録を塗り替えてシーズン最多となる262安打も放ちましたし……」

 驚いたのは、ブルースの口から「262」という数字が当然のように出たことだ。ほとんどの選手は、イチローがシーズン最多安打記録の持ち主であることは知っているが、正確な数字を言える選手はほとんどいない。「280」とか「258」と言う選手はいるが、ブルースは自身がまだ高校生だった頃に成し遂げられた記録のことを、今でもはっきりと覚えている。

「雑誌の表紙になっていたことも覚えていますし、この間、ある人が最多安打の記録についてイチローに聞いていました。僕も、イチローには山ほど聞きたいことがあるのですが、迷惑をかけたくないですし、遠慮しました。でもせっかく身近にいるので、興味を持ってルーティンを見たり、考え方を聞いたりしないともったいないですね。

 イチローは野球史上最も優れたバッターです。仮に一番ではないにしても、『誰が最高のバッターか?』という議論になったとき、間違いなく名前は挙がるでしょう。テッド・ウィリアムズ、ピート・ローズ、バリー・ボンズ……とほかにも偉大なバッターがいますが、イチローも彼らと同じようにメジャー史に残るバッターです。そんな選手と同じ空間で練習できるというのは、すごく名誉なことです」

 キャンプ中、ブルースはイチローのキャッチボール相手になっていた。気を遣って、ライン上に立つ役にするのか、それとも距離を取りながら離れていく役にするのか、いつもイチローに確認してから始まった。その10分間のキャッチボールでも、ブルースは「感動した」と言う。

「チームメイトになる前から肩がいいことは知っていたけど、キャッチボールのパートナーになったら、肩の強さはもちろん、正確さやボールの軌道の美しさなど、感動することばかりです。私も肩は強い方だと思いますが、イチローと遠投するおかげで、さらに強くなるんじゃないかと感じています」

 そしてブルースは、もうひとつ忘れられない感動的な出来事があった。それが3月に東京ドームで行なわれたメジャーの開幕戦だ。

 イチローは第1戦に「9番・ライト」で出場。2打席目が終わったあと、一度はライトの守備位置に就いたが、監督が交代を告げた。イチローが三塁側ベンチに向かって走ってくる間、詰めかけたファンは大声援を送っていた。イチローに代わり、ライトの守備に入ったのがブルースだった。

「感情が込み上げてきました。メジャーに昇格して12年目のシーズンですが、それまでいくつもの歴史的な瞬間に立ち会うことができました。シンシナティ・レッズ時代はケン・グリフィーJr.の通算600本目のホームラン(史上6人目)も経験しましたが、東京ドームでの試合も特別でした。

 私にとってもイチローは偉大な存在ですが、彼が日本のファンにどれだけ愛されているのかを実感し、本当に感動しました。イチローがすごい声援のなかでベンチに下がり、その代わりにライトを守るのはゾクッとしましたね。ライトスタンドにいるファンの方に申し訳ない気持ちもあります。私のプレーを見に来ているファンはいないと思うのですが、それでもみんな応援してくれました。日本のファンの礼儀正しさや熱狂ぶりは、もちろん忘れることができません。これだけファンに愛されているイチローに代わって、彼がいるべきはずの場所に立ってプレーすることがどれだけ名誉なことか……言葉になりません」

 その翌日の試合後、イチローは現役引退を表明した。再びアメリカに戻り、マリナーズはシーズンを戦っているが、そこにイチローの姿はない。ブルースがイチローと過ごした時間は短かったが、それでもかけがえのない濃密な時間だった。