プロレスラー・鈴木みのる。50歳にして、現役バリバリ。常にタイトル戦線に絡み、海外でも爆発的な人気を誇る。海外では、棚橋弘至、オカダ・カズチカよりも、鈴木みのる。派手なコスチュームを着ているわけでもない。派手なパフォーマンスをするわけでもない。それでも”黒いショートタイツの侍”に、世界中が魅了されている。そのカリスマ的人気のワケを知りたいと思った。鈴木のルーツを辿ろうと思った。



日本のみならず海外でも爆発的な人気を誇る鈴木みのる

 幼稚園、小学校と、やんちゃな子どもだったという。いつも先頭じゃないとイヤ。学級委員もやりたい、班長もやりたい、部長もやりたい。常にお山の大将でいたかった。しかしある時、遊ぶ約束をしていた友だちの家に行くと居留守を使われた。悲しくて、涙を流しながら帰った。その頃から心を閉ざし、ひとりで遊ぶことが増えた。

 プロレスにのめり込んだのは、中学校1年生のとき。4月に初代タイガーマスクのデビュー戦があった。テリー・ファンクをはじめ、全日本プロレスの外国人選手が好きだった鈴木はその試合を観ていなかったが、次の日、学校でみんなが騒いでいる。翌週から新日本プロレスの試合を観るようになった。そのとき目に留まったのが、アントニオ猪木だった。

「国際軍団が新日本に来たことがあるんですよ。3人に対して、猪木さんは1人で闘った。そのときにドはまりしました。『勝てるわけねーじゃん』と思って、実際、勝てなかったんですけど、勝てなかった方にオレは惹かれたんです。カッコいいと思ったんですよね。それからは猪木一筋ですよ」

 プロレスラーになりたいと思ったのは、中学校3年生の時だ。IWGPがタイトル化される前に、世界中のチャンピオンが集まるトーナメント・IWGPリーグ戦があった。決勝戦は1983年6月2日、アントニオ猪木×ハルク・ホーガン。テレビ中継は翌日だったため、その日、鈴木は友だちとお祭りに行った。帰宅して何気なくテレビを観ていたら、衝撃を受けた。『試合中にアントニオ猪木が意識不明になり、救急車で緊急搬送』というテロップが流れたのだ。俗に言う「猪木舌出し失神事件」である。

「そのとき親父に『オレ、レスラーになる』って言いました。猪木の敵(かたき)をとる、と。親父にはバカにされましたけど、それからオレの人生は変わりましたね」

 その頃、鈴木は人の目を気にしないと生活できなくなっていた。のけ者にされないためには、2番目、3番目にいるのが一番いい。本当は飛び抜けたいのに、飛び抜けないように生きていた。しかし、レスラーになろうと決意したその日から、世界がガラッと変わった。同級生を見て、「コイツらとオレは違う世界の人間なんだ」「オレはテレビの向こう側に行くんだ」と。そこから人生がめまぐるしく変わっていく。鈴木は言う。「導かれたとしか思えない」――。

 鈴木の実家は酒屋を営んでいたが、たまたま店に来た男性客に「レスラーになりたいのか? おじさん、レスラーだったんだよ」と言われた。その人は、藤原喜明も通っていたボディビルの「スカイジム」会長、金子武雄。スカイジムには世界で活躍するボディビルダーが集まる。鈴木は毎日ジムに通い、中学を卒業する頃にはベンチプレス100kgを上げた。

 高校に上がると、レスリング部に入部。自己紹介のとき、「将来プロレスラーになりたいので、レスリングはとりあえず日本一になりたいです」と言うと、先輩に大爆笑された。しかし1年生の夏、鈴木は県大会で優勝し、全国大会へ行く。1回戦で負けたが、声を掛けてきた男性がいた。「君、面白いから、うちの大学に遊びにおいで」。国士舘大学の伊達治一郎だった。モントリオールオリンピックの金メダリストだ。それからは、週末になると大学の道場に通い、2年生の春には全日本の強化選手に選ばれ、国際大会にも出場した。

 そんな頃、鈴木が通っていた横浜高校の武末先生が、とある初老の男性を道場に連れてきた。「お前のやり方じゃダメだよ」と言われ、指導を受けるようになった。その男性の名は、ビクトル古賀。日本にロシアの国技であるサンボを広めた伝説の格闘家だ。鈴木が使うビクトル投げは、直伝だったのだ。伊達治一郎とビクトル古賀との出会いによって、鈴木はどんどんと強さを増していく。

 高校3年生の時、国体2位という輝かしい成績を収めた。しかし鈴木にその話を聞くと、渋い顔をした。「その話は、一生、したくもない」――。2位なんて、成績でもなんでもない。優勝できなければ、なんの意味もない。いまでも思い出すだけで、悔しさで胸が張り裂けそうになるという。

「でも踏ん切りつきましたよ、レスリングやめようって。大学へ行ってオリンピックを目指すという環境は整っていましたけど、踏ん切りつきました。プロレス一本でいこうと」

 卒業後、新日本プロレスの入門テストを受け、入団。強くなりたかった。アントニオ猪木のようになりたかった。前田日明という新たなるスターにも憧れた。その向こう側に見えているものは、”プロレスの神様”カール・ゴッチという存在。しかし中学時代から憧れてやまなかった新日本プロレスをわずか1年で退団し、新生UWFに移籍する。

「移籍した一番の理由は、UWFの人たちが新日本を辞めたからですね。藤原さんにいつも練習をつけてもらっていて、その藤原さんや前田さんたちが辞めてしまった。そうこうしているうちに、新日本はUWFと差別化を図ろうとして、おかしな方向に行き始めたんです。試合中に逆十字固めを出しただけなのに、『お前はUWFにかぶれているのか?』と言われたり。片っ端から先輩に目をつけられましたね」

 1991年、UWFはプロフェッショナルレスリング藤原組、UWFインターナショナル、リングスの3団体に分裂。鈴木は迷うことなく、藤原組を選んだ。藤原と一緒にプロレスをやりたかった。藤原抜きでプロレスをやることは、まったく考えられなかった。高田延彦にも可愛がられたが、藤原に対して特別な敬意と憧れがあった。

 藤原組の顧問になったのは、カール・ゴッチ。新日本の人間も、UWFの人間も、ゴッチのことをよく言う人間は少なかった。「ゴッチなんか間違っている」「厳しいことばっかり言って、適当だ」「本当は強くなかったんだ」――。そんな話ばかり聞いていたが、実際、側にいるとゴッチの本当の強さがわかった。毎日10時から16時まで、一緒にトレーニングをする。そんな生活が楽しくてしかたなかった。

「何かを教わった、という感じではないんですよ。これとこれを覚えなさい、というやり方ではないので。『ブリッジやってみて。ここから沈んでいくんだ。ああ、スズキはできない。OK、OK、次やろう』という感じですね。できないことを一切、咎めないんですよ。それが余計に悔しくて。その時に、全部、一発でできたのが、船木(誠勝)なんです。悔しくてしょうがなかったですけど、レスラー人生の前半は船木とともにいた時間なので、彼がいなかったら僕はここまで頑張れなかったかもしれないですね」

 1993年1月、鈴木は船木とともに藤原組を退団し、総合格闘技団体・パンクラスを旗揚げする。なぜプロレスから総合格闘技へ? そう問うと、鈴木はこう答えた。「あれがプロレスなんです、オレのなかで。カッコいい恰好をして、リングの上で闘って、パッと相手をやっつける。あれがプロレス。当時はね」

 しかし首の負傷が原因で、欠場する日々が続く。2002年11月、引退を覚悟して臨んだ試合の相手は、獣神サンダー・ライガー。試合が決まる前、ライガーが鈴木に連絡をくれた。「お前、辞めるらしいな。辞めるなよ。マスクを脱いでもいいから、オレがお前の相手をする。だから辞めるな」――。感動した。格闘技関係者からは「あんなド素人と、じじいレスラーがメインイベントでやるなんて、なにがパンクラスだよ」と叩かれた。しかし鈴木は、世界最強の相手とやるんだと思ってトレーニングを積んだ。

「ライガーと試合をやってみて、それまで振り返ることのない生き方をしてきたのに、振り返ったんです。プロレスの最先端まで行ったつもりだったんですよね。けど、ふと振り返ったら、見たことのない世界だらけだったんです。そこに一歩でも戻ることは、仲間を捨てることになる。悩んで、悩んで、もう一度挑戦のつもりで戻りました。そこで初めてレスラーになれた気がしましたね。海外武者修行ってあるじゃないですか。オレは”格闘技武者修行”をしてたんじゃないかなと思います」

 2003年、鈴木はプロレスに復帰する。下記は、拙著『最強レスラー数珠つなぎ』(イースト・プレス)の髙山善廣の章からの一部抜粋である。

※髙山は2017年5月4日、試合中に負ったケガが原因で頸髄完全損傷と診断され、首から下が動かなくなった。回復の見込みはないとされている。

<古巣の新日本プロレス。唯一、話し相手になったのは髙山善廣だった。試合が終わる度に、「俺の試合どうだった?」と尋ねた。そんな鈴木に、髙山は言った。「鈴木さんのプロレス、つまらない」――。

「必死に現代の技をやろうとしていたんです、溶け込みたくて。他の選手がやる技をやってみたり、受け身の練習をしてみたり。でも髙山は、それがつまらないと言う。技を知らない、受け身が取れない。それが鈴木みのるでしょ、と。だれよりも強いパンチ、だれにも負けないグラウンドテクニック。つまり俺の人生こそが俺の武器だということを教えてくれたのが、髙山なんです」

 たくさんの話をした。お互いが子供の頃に憧れていた、アントニオ猪木のプロレス。いまのプロレスは、その頃とはまるで違う。こんなに弱い奴らが、なんで偉そうに試合をしているんだ。飼い慣らされた猫じゃないか……。二人は意気投合した。いつしか鈴木は髙山のことを、「俺の友だち」と表現するようになった。

 二人でプロレス界を縦横無尽に暴れ回った。中でも鈴木が自身のベストバウトの一つに挙げるのは、2015年7月19日、プロレスリング・ノア旗揚げ15周年記念大会。髙山は鈴木の持つGHCヘビー級王座に挑戦した。鈴木はパイプ椅子で高山の頭部を殴り、髙山は大流血。試合内容に納得しない観客から、リングにゴミが投げ入れられた。しかし鈴木はあの試合を振り返って、「なにひとつ後悔はない」と話す。

「もしもあの試合で受けたダメージが現在の彼の状況につながっていたとしても、後悔はないです。本人もないと思います。タッグを組んだら一緒に全力で闘って、笑い合って、敵になったら全力で殴り合える。そんな友だち、なかなかいないですよ。友だちだから全力で殴り合えた。手を抜いたら逆に怒られそうで」

 ノアと敵対した鈴木に対し、髙山は「俺は三沢さんにお世話になったから、ノア側につく」と宣言。それから二人は会話をしなくなり、プライベートで会うこともなくなった。そして昨年5月、髙山の体は動かなくなった。

 髙山を支援するTAKAYAMANIA設立記者会見で、鈴木は泣いた。泣きながら、髙山への募金を呼びかけた。ヒールの中のヒール。通称、”世界一性格の悪い男”。その男は友だちのために、日本中の前で泣いた>

 鈴木みのるにインタビューをすると、実は”世界一性格のいい男”なんじゃないかと思うことがある。厳しい人ではある。しかしわたしのような素人にもわかるよう、かみ砕いて、丁寧に話し、本音でぶつかってくれる。鈴木の言葉には、魂が宿る。

「去年、『大海賊祭』というデビュー30周年イベントをやったとき、一番のコンセプトは、誰にでも可能性があるということを子どもたちに伝えたかったんです。ダメ、無理、できるわけない。そういう大人たちの話を一切、聞くなと。勝手に進めと。できなかったらどうするの? 知らねーよ、お前の人生だろ(笑)」

 拙著『最強レスラー数珠つなぎ』では、最後に「自分以外で最強だと思うレスラーは?」と質問してきた。鈴木みのるが最強だと思うレスラーは、誰なのだろうか?

「オレ。オレのなかにいるオレ。『今日くらい、やらなくてもいいんじゃね? これだけ成果が出てるんだから』って、オレをそそのかす奴がいるんですよ。弱い部分の自分ですよね。これに打ち勝つのはすごい大変。でもオレはそれができる。こんなに強い奴、世界中探してもいないですよ」

 これが、鈴木みのるという”最強レスラー”なのだ。