西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(20)【初戦先発】ヤクルト・岡林洋一 後…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(20)
【初戦先発】ヤクルト・岡林洋一 後編
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第4戦で、ようやくデストラーデの抑え方をつかんだ
――岡林さんの完投勝利で初戦を制したスワローズでしたが、第2戦、第3戦を落として1勝2敗で迎えた第4戦。中4日で再び、岡林さんが先発に指名されました。これは、いつ、どのタイミングで告げられたのですか?
岡林 確か、初戦を終えた次の日(10月18日)に、「中4日で第5戦に先発だ」と告げられたと思います。
1992年の日本シリーズで3度先発を務めた岡林 photo by Sankei Visual
――この年のシリーズは、10月20日に行なわれるはずだった第3戦が雨天順延となり、岡林さんが投げる予定だった「第5戦」は23日開催となりました。しかし、スライド登板はせず、「中4日」で22日の「第4戦」に投げることになったわけですね。
岡林 そうです。投げる日にちは変わらず、ローテーション通りの先発でした。中4日ではあったけれど、元々そのつもりでしたから調整は難しくはなかったです。結果的に、僕は第7戦にも先発しますけど、もしも、雨天順延がなければ、第1戦と第5戦の先発だけだったと思います。もちろん、状況によっては第6戦、7戦でのスクランブル登板も頭にはありましたけど。
――この日は西武球場(現・メットライフドーム)での登板でした。前回は神宮球場でしたが、ホームとビジターでの登板において心境の違いなどはありますか?
岡林 それはホームのほうがいいですよ。サヨナラ勝ちがあるのか、サヨナラ負けの可能性があるのかで、だいぶ気持ちは違いますからね。お客さんだってホームのほうがファンの数も多いわけだし。でも、僕はビジター球場で、たとえば東京ドームとか甲子園球場でピシャッと抑えたときに、相手ファンがシュンとする瞬間が好きだったんですけどね。でも、日本シリーズの場合はちょっと違っていましたけど。
――この日の調子はいかがでしたか?
岡林 調子はよかったですよ。相手のライオンズの先発が地元・高知のひとつ上の先輩である渡辺智男さんでしたから。やっぱり、いいピッチャーと投げ合うときは楽しみなんですよ。4回に秋山(幸二)さんにレフトにホームランを打たれましたけど、これはツーボールからストライクをほしがって甘くなった一球でした。でも、それ以外は思い通りに投げられたし、この試合の第2打席だったかな? ようやく、デストラーデの抑え方をつかんだんです。
――「デストラーデの抑え方」とは、具体的にはどんな策なのですか?
岡林 デストラーデの第2打席、最後はインハイのストレートで三振を奪ったんです。事前のミーティングでは「高めはダメだ、高めはダメだ」と言われていたけど、「いや、意外と高めは使えるぞ」と手応えを感じました。結局、初戦ではインサイドをほとんど使えなかったんです。でも、インサイドの高めに力のあるストレートを投げれば抑えられると感じました。それまでは、何をどうしたらいいのかわからない状態で投げていたけど、フィニッシュが見えたことで、エサをまきながら、そこに持ち込む方法が見えたんです。
――結局、この試合も岡林さんは完投したものの、先ほどの秋山選手のソロホームランによる得点だけで、0-1と惜敗。チームは1勝3敗と追い込まれてしまいました。
岡林 そうですね。チームは追い込まれてしまいましたね。でも、ピッチングとしてはほぼ完璧だったので自信にはなりました。……ただ、この試合の途中に、「アレ? 来年は投げられないかもしれないな」って感じたんです。調子はよかったし、肩も痛くなかったんだけど、「なんかしっくりこないな」というボールが何球かありました。そのときに、急に来年のことが不安になったんです……。
――翌年はシーズン途中で故障し、その後も長くリハビリに励むこととなりました。
岡林 この試合で、余裕があったというわけではないけど、「アレ、何かおかしいな」って考えながら投げていたんですよね。同じように投げているのに、いいボールとそうじゃないボールと、すごく差があるんです。自分でも理由はわかりません。そのときに、ふと来年のことが不安になりました。今から思えば、肩の疲労が回復しきっていなかったんでしょうね。投げながら、「大丈夫かな、来年」って思っていましたね……。
シリーズ3度目の先発で、3度目の完投も……
――1勝3敗と追い詰められたものの、スワローズは第5、6戦を連勝し、3勝3敗のタイとしました。雌雄が決する第7戦、またしても先発は岡林さんでした。
岡林 第5戦にもベンチには入っていました。さすがにその試合は投げることはなかったと思うけど、第6戦は展開次第では投げることになったと思います。結局、第5、6戦での出番はなかったんですが、チームが3勝3敗のタイに持ち込んで、第7戦で投げることになりました。
――第7戦は「中3日」での登板となりました。以前、この連載において、この第7戦に中4日で登板した西武・石井丈裕さんが、「自分は中4日でも、まるで時差ボケのような感覚だった。中3日で登板した岡林くんはもっとキツかったはずだ」と言っていました。
岡林 もう、ふくらはぎはパンパンで走ることもできないんで、当日は何もしないで球場に入りました。いや、ふくらはぎだけじゃないです。足、腰、腕、全部がパンパンの状態ですよ。満足な(ウォーミング)アップができなかったので、チョロチョロって動いた程度で試合に臨みましたね。でも、泣いても笑ってもこれが最後ですからね。たぶん、この状態であっても、「今日は投げられません」っていうピッチャーは誰もいないと思いますよ。
――相手の先発は先ほど名前を挙げた石井丈裕投手でした。
岡林 めちゃくちゃコントロールがいいピッチャーですからね。「点は取れそうにないな」と思いながらマウンドに上がりました。でも、4回にうちが1点を先制したので、「この1点を守り切ろう。完封しよう」、そんな思いで投げ続けましたね。試合が始まったら、体調のことは何も気になっていませんでしたから、「行けるところまで投げるぞ」という思いだけでした。
――試合は4回裏にスワローズが相手ミスに乗じて1点を先制。試合は1-0のまま7回表に進みました。味方のエラーからツーアウト一、二塁のピンチを招いて、相手打者は投手の石井丈裕。この場面を振り返っていただけますか?
岡林 この場面は、ベンチでメガホンを持って声援を送っている石毛(宏典)さんにやられました。もう、石毛さんは必死なんです。マウンドにいても、すごい圧を感じました。石井さんに打順が回ったとき、「代打を出してくれたらありがたいな」って思いました。どうしてかというと、「僕がこのピンチを切り抜ければ、次はうちにチャンスが来る」と思ったからです。でも、代打は出ない。「そりゃ、そうだよな」と思っていたら、三塁側ベンチから、石毛さんが必死に声援を送っているのが見えました。それはもう、本当にすごい気迫でしたから。
「1992年は僕を成長させてくれた忘れられない一年」
――これまで、この連載でお話を聞いてきた西武・森祇晶監督、ヤクルト・野村克也監督、そして石毛さん、石井さん、みんなが「この場面が忘れられない」と言っていました。結果的に石井選手が放った打球は、センター・飯田哲也選手のグラブをかすめてポトリと落ちて、同点打となりました。
岡林 もちろん、僕もこの場面は忘れられません。あの打球は、普段の飯田なら捕れたと思います。正直、「捕ってくれよ」という思いもありました。でも、石毛さんの圧を感じた時点で、この勝負は僕の負けでした。同点に追いつかれたのは悔しかったです。でも、うれしかった思いもあるんです。「あんな強い西武をここまで本気にさせているんだ」っていううれしさです。でも、この試合はホームゲームでしたから、自分が抑えさえすればサヨナラ勝ちもあるわけです。そういう意味ではすぐに「このまま同点に抑えて、2-1で勝てばいいんだ」って切り替えられましたね。
映像を見ながら当時を振り返る岡林氏
photo by Hasegawa Shoichi
――結局、この試合も延長戦となりました。スワローズは7回、8回、9回とことごとくチャンスを潰して、追加点を奪えない。どんな心境で投げ続けていたのですか?
岡林 もちろん、点は取ってほしいですよ。でも、「まあ、仕方ないか」という思いのほうが強かったです。試合終盤には、「もうすぐ日本シリーズも終わるんだな」という思いが強くて、「もうちょっと長くやりたいな」と思って投げていました。
――初戦に161球、第4戦に109球を投げ、中3日で臨んだ第7戦でもすでに130球以上も投げていたのに、「もっと長くやりたい」と思っていたんですか?
岡林 はい。「もうちょっと楽しみたいな」という感じですね。この頃になると、もう疲れも感じていないんです。「完投」がどうのこうのではなく、「まだまだ続いてもいい」「もっと投げていたい」という思いでしたね。
――延長10回表、ワンアウト三塁の場面。秋山幸二選手の犠牲フライでついに西武が勝ち越し、1-2とリードを許しました。
岡林 これは難しい場面でしたね。秋山さんを敬遠したほうがいいのか、次の奈良原(浩)で勝負したほうがいいのか。このとき僕は秋山さんを抑えられると思っていました。それに、奈良原には大学時代によくヒットを打たれていたイメージがあったんです。それで勝負をしたけど犠牲フライを打たれてしまった。勝負した結果です。
――こうして、1992年の日本シリーズではスワローズは善戦むなしく3勝4敗で敗れました。改めてこの年のシリーズを振り返っていただけますか?
岡林 僕を成長させてくれたシリーズでしたね。自分の持っている力以上のものが出たと思うんです。あの頃は「古田(敦也)さんのリードに従って、そこに投げさえすれば抑えられる」と思って投げていました。そして、この大舞台でそれはほぼほぼできたと思います。
翌年、チームは日本一になったけど、僕は故障で投げることができずに、自宅で仲間たちの胴上げシーンを見ました。僕はこの1992年を境に成績が下降していきます。だからこそ、やっぱりこのシリーズは自分を成長させてくれた忘れられないシリーズなんです。おかげで、今でもこうしてあの年のことを話す機会をいただけるんですからね。