2020東京五輪に向け「スポーツ業界で働きたい!」と思っている学生や転職を希望している人が多くなる中、どんな職種があるの?どんなスキルが必要なのか?など分からないことが数あり、仕事の実際を知ることが意思決定には重要となる。そこで、スポーツを仕事としている人にインタビューし、仕事の“あれこれ”を聞いた。

東京医療保健大学 女子バスケットボール部ヘッドコーチ
名前:恩塚亨(おんづか・とおる)さん
職業歴:2006年~

仕事内容
・選手指導(練習メニューの考案など)
・選手とのコミュニケーション
・ナショナルチームでのコーチ業

取材・文/斎藤寿子

2018年12月に行われた『全日本大学バスケットボール選手権記念大会(インカレ)』。女子は決勝で愛知学泉大学を85-76で下した東京医療保健大学が大会2連覇を達成。同大学は、創部13年で5年前に1部に昇格、しかし、それまでは無名に近かった。

その同大学を“日本一”に押し上げたのが、監督を務める恩塚亨さん。日本のバスケットボール界で“アナリスト”の価値を見出した最初の人物でもあり、現在は女子日本代表のアシスタントコーチも務める。一体どのようにして監督業を行うことになったのだろうか。そして、どのような仕事内容なのか。恩塚さんに話を聞いた。

大分県出身の恩塚さんは、大学までバスケットボール部に所属していたという根っからの“バスケットボールマン”。筑波大学卒業後、千葉県の渋谷教育学園幕張中学校・高等学校で保健体育教諭として勤めていた。同時に、高校の女子バスケットボール部の顧問でもあった。

もともと大学時代から教員を目指し、指導したいと考えていたという恩塚さんにとって、それはまさに希望通りの最適な居場所のように思えた。しかし、実際は厳しい“現実”があった。赴任先は“超”が付くほどの進学校で、放課後の練習時間は1時間限定。

「最初は“バスケをやりたい”という子どもたちの気持ちを大切にしたいと思っていたのですが、途中でそれは違うのかなと。中学受験で合格するって、本当に大変なことだと思います。それこそ両親の想いとサポートが必要で、ようやくの思いで入学して、次の世界へと大きく羽ばたこうとしている子どもたちに、バスケットボールを学校生活の中心にしてはいけないな、と感じました」

それでもなんとか工夫した練習で、1年目はブロック大会で数十点差がつくほどのスコアで完敗を喫していたチームを、4年目には初めて県大会出場へと導いた。だが、胸の内には、『思い切りバスケットボールを指導してみたい』という葛藤があったことも確かだった。

転機が訪れたのは2005年。母校の大学の1部・2部入れ替え戦を観戦しに代々木体育館を訪れた時のこと。“代々木体育館”は、日本のバスケット選手たちの“聖地”ともいえる場所で、恩塚さんにとっても思い出の場所だった。久しぶりにその“聖地”を訪れ、後輩たちのプレーを見て『この代々木で指揮をすることはないのだろうか…』という一抹の寂しさを感じていた。

今いる場所と自分の気持ちとのギャップに悩む中、なかなか一歩を踏み出せずにいた恩塚さんがふと思い出したのは、その前年に出会ったある人の言葉だった。

「私が教員3年目の時に、ある銀行が社会貢献活動の一環として、現役のNBAプレーヤーを高校に呼んでくれたことがありました。その時に、その銀行の役員の方とお話をしていく中でいろいろとアドバイスをいただいたのですが、『自分の人生は自分でつくっていくものですよ』というふうに言われた時にハッとしました」

聞けば、その人自身の歩んできた道が実に面白かったという。恩塚さんによれば、カナダ駐在中に現地のNBAチームのフロントと親しくなり、交流を深めていく中で、NBAきってのスター選手であるマイケル・ジョーダンのトレーナーとマネージメント契約をする寸前までいったのだという。“やりたいことがあるなら、実行に移していくべき”というその人からの言葉と、代々木体育館での感情がリンクし、行動に移す決意をした。 ちょうどその時耳にしたのが、新設校の話で、それが現在勤めている東京医療保健大学。当時勤めていた中学校・高校と理事長が同じだったことから、恩塚さんは女子バスケットボール部創設の企画書を提出。しかし、なかなかうまく話は進まなかった。指導者として目立った実績がなかったことを考えれば、当然なのかもしれない。それでも諦めることなく、足繁く副理事のもとに通い、企画書を出し続けた。

「もともとマイペースな性格の自分が、これほどまでに積極的に行動したのは、人生で初めてだったかもしれないですね。相手からすれば、しつこかったと思います(笑)。常識的に考えれば、実績も何もない自分に新設のバスケットボール部を任せるなんてあり得ない。だったら、その“常識”の壁を超えるには“情熱”しかないなと。それに答えを出すのは相手であって、自分ではどうしようもない。だったら、答えが出るまで、自分がやれることをやるしかないと考えていました」

企画書提出は“月に一度”のペースだったことからも、その本気度がうかがえる。すると、その“情熱”が届いたのだろう。2006年の開学と同時に、女子バスケットボール部の創設が決定。当時、系列校の高校で教鞭をとっていた恩塚さんは、そのまま高校教員として勤めながら、指導の場を東京医療保健大学へと移した。

とはいえ、すぐにバスケットボール部が軌道に乗ったわけではなく、苦労の連続だった。初年度、偶然にも東京都でベスト4に進出するほどの高校から3人の学生が入学していた。そこで早速、バスケットボール部の創設を伝えて勧誘。そのバスケ経験者3人に、ほぼ初心者の2人を加えた5人でのスタートとなった。

だが、全員がもともとバスケットボールを続けるために大学に入ったのではなかったため、本格的な厳しい練習を嫌がり、1年しないうちに退部した部員もいた。2年目も4人の新入生が入部したものの、すぐに1人が辞めてしまい、7人での活動だった。

「最初のうち、一番苦労したのはチームとして目的意識の統一が図れなかったことにありました。何度も選手たちと話し合いましたが、強制するわけにはいきませんから、とにかく同じ目的を持った選手たちが増えていくのを長い目で見ることも必要だろうなという思いでいました」

ようやくチームとしてまとまり始めたのは、創部5年目。前年の2009年に3部リーグで優勝し2部に昇格したころのこと。2年後の2011年には優勝こそできなかったものの、2部で上位に進出するチームになっていた。そのあたりから“ハードワークに対する壁”がなくなったという。

「それまで練習は週3~4日でしたが、それを増やすと“何でしなくてはいけないんですか?”という声がありました。でも、2部に上がったくらいから、気持ちの熱い選手が増えてきて、チームとしても徐々に目的意識が統一され始めてきたのかなと。成長するための厳しさを追求することに異論の声があがらなくなってきました」

2012年には2部リーグ優勝と同時にインカレ初出場を果たした。翌2013年に2部リーグで連覇し、ついに1部に昇格すると、2015年から3年連続でリーグ3位。そして2016年にインカレで決勝進出すると、2017年にはリーグとインカレで2冠を達成。創部12年目で日本の頂点に立った。

しかし“優勝するためにやってきたかというと、それが一番の目標ではなかった”と恩塚さんは言う。

「初年度から変わらずやり続けてきたのは、昨日より今日、どうすれば成長できるか、ということ。それをただひたすら追い求め続けてきた先に優勝できた、という感覚なんです」(※前編終わり)

記事後編

(プロフィール)
恩塚亨(おんづか・とおる)
1979年生まれ、大分県出身。中津南高等学校、筑波大学卒業。早稲田大学大学院修了。大学卒業後、渋谷教育学園幕張中学校・高等学校で教員を務め、2006年に東京医療保健大学の女子バスケットボール部を立ち上げ、創設11年でインカレ日本一に導く。日本代表チームにも自らの希望で自費参加で帯同し、代表チームをデータ面からサポート。功績が認められ、2008年オリンピック最終予選から正式に女子日本代表のアナリストを務める。現在は、女子日本代表アシスタントコーチを兼任。

※データは2019年3月29日時点