西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(17)【初戦先発】西武・渡辺久信 前編(連載第1回はこちら>>) 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。 1992年、そして1993年の日…

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(17)

【初戦先発】西武・渡辺久信 前編

(連載第1回はこちら>>)

 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。あの激戦を戦い抜いた両チームの当事者たちに話を聞き、好評を博した連載を再開する。

 第5回のテーマは「初戦先発」。今回は、熱戦の幕開けとなった1992年、シリーズ初戦に西武の先発を務めた渡辺久信のインタビューをお届けする。


西武で3度の最多勝を獲得するなど活躍した渡辺

 photo by Sankei Visual

1992、1993年の頃にはすでに全盛期を過ぎていた

――1992年、1993年はスワローズとの日本シリーズでした。当時のスワローズについては、どんな印象を持っていましたか?

渡辺 非常に「若い」っていうイメージでしたね。それにバランスの取れた打線だったと思います。一番・飯田(哲也)から始まって、広澤(克実)さん、池山(隆寛)、古田(敦也)など、野村(克也)さんが思っているような、いろいろな野球ができる駒がそろっていたという印象がありますね。

――この連載において、ライオンズのコーチだった伊原春樹さんは、当時「相手はヤクルトか、今年は楽勝だなと思っていた」と言っていました。渡辺さんは、どのように思っていましたか?

渡辺 それは伊原さんだから、そう考えていたんだと思います(笑)。僕ら選手たちは、そんなことは一切思っていなかったと思いますよ。同じプロ野球人として、1年間のペナントレースを制してセ・リーグを勝ち上がってきたチームに対して、そんなことは一切思わないです。それは相手に失礼ですからね。

―― 一方のスワローズナインに話を聞くと、「黄金時代の西武に勝てるはずがないと思っていた」と、当時の心境を口々に話していました。

渡辺 確かに、僕たちも「互角だ」とは考えていなかったとは思うけど、「短期勝負はやってみなければわからない」というのは、みんな思っていたんじゃないですかね。ただ、この頃にはすでに僕自身が衰えていたし、全盛期も過ぎていた頃だったという印象が強いですね。

――当時の渡辺さんは、1992年がプロ9年目の27歳、翌1993年がプロ10年目の28歳。まだ30歳の手前にもかかわらず、全盛期は過ぎていたという実感があったのですか?

渡辺 僕は18歳から一軍で投げていましたからね。それまでの”使い減り”は半端じゃなかったですよ。で、1992年が12勝12敗で、これが最後の2ケタ勝利でした。その後は9勝が2年続いて、あまり勝てなくなってしまいましたからね。この頃には自分の思ったような真っ直ぐじゃなくなっていましたね。どうしても、真っ直ぐを痛打されることが多くなっていました。だから、ストレートで押すだけではなくモデルチェンジを図っていた頃でした。でも、真っ直ぐがいかなくなると、他の変化球もなかなかうまくいかなくなるんですけどね。



当時を振り返る渡辺氏 photo by Hasegawa Shoichi

当時の西武投手陣にエースはいなかった

――当時のライオンズには郭泰源投手、工藤公康投手、そして1992年の日本シリーズで大活躍をする石井丈裕投手など、好投手がズラリとそろっていました。当時のライオンズのエースは誰だったのでしょう?

渡辺 うーん、「エース」という括りで考えたことはなかった気がしますね。「エースのプライド」とか、「エースのこだわり」とかよく聞きますけど、僕自身はそれほどエースというものにこだわっていなかったです。成績でいったら、僕なんかがトップになってくるんだろうけど、そもそもオレ自身が思っていないわけですからね。だから、この頃はエースなんていなかったと思いますよ。僕にとってのエースは、もっとすごいイメージがあるんです。稲尾(和久)さんをはじめとする歴代エースのイメージが強かったんです。

――「鉄腕」と呼ばれた稲尾さんのイメージが強かったんですね。現役通算251勝で、渡辺さんとも一緒にプレーした東尾修さんもやはりエースでしたね。

渡辺 そうですね、東尾さんもエースでしたよね。ライオンズの低迷期から長年にわたってずっと投げていたわけですから。普通、1年で20何敗もするピッチャーなんていないですよ。

――西鉄ライオンズ時代の1972年には18勝25敗も記録していますね。

渡辺 通常であれば、そこまで負けていたら二軍に落とされますよね。それでもずっと一軍で投げ続けているんだから、それはやっぱりエースです。

ペナント開幕戦のほうがずっと緊張する

――さて、1992年の日本シリーズ。初戦のマウンドに立ったのは渡辺さんでした。

渡辺 えっ、初戦はオレでしたか? 試合はどこでやりました? えっ、神宮? 全然、覚えてないですね。僕は何回まで投げましたか? ……7回を投げて3失点で勝ち負けなしか。スミマセン、全然覚えていなかったです(笑)。

――では、初戦のマウンドをいつ託されたのかということもご記憶にないですか?

渡辺 ……ないですね。僕はそれまでも、日本シリーズの初戦で投げることが多かったんですよ。1988年の中日戦、1990年の巨人戦は初戦先発でした。やっぱり、初戦に勝つのと勝たないのとでは全然違うし、負けるより勝ったほうがいいわけだから、「初戦はいいスタートを切ろう」と思っていましたよ。

――1988年と1990年は、いずれも勝利投手になっていますね。

渡辺 そうですね。後に森(祇晶)監督の「日本シリーズは2戦目重視で戦う」という発言を耳にしましたけど、当時はそんなことは何も知らずに投げていましたね。でもこの頃、うちは毎年優勝して、毎年日本シリーズに出ていましたけど、僕にとって一番大事なのは、ペナントレースを勝ち抜くことでした。そして日本シリーズはお祭り騒ぎじゃないですが、ペナントとは違った意識を持っていましたね。ある意味、”ペナントのご褒美”という感じ。当然、ペナントレース開幕戦のマウンドと、日本シリーズ初戦のマウンドは意識が違いました。

――どのように違うものなのですか?

渡辺 シーズン開幕戦のほうがずっと緊張しますよ。ペナントの開幕戦は、感じがつかめない中での「よーい、ドン」のスタートで、手探り状態なんです。でも日本シリーズの場合は、すでにペナントで1年間戦ってきているわけだから、ある程度は自分で感覚をつかめている。同じ「開幕投手」でも、僕にとってはシーズン開幕のほうが緊張したし、ずっと価値のあるものでしたね。

――その考えは、後に監督になってからも同じでしたか?

渡辺 変わっていないですね。今でもそう思っています。日本シリーズの短期決戦はすぐに終わっちゃうものですしね。もちろん、シリーズ独特の緊張感はあるんですよ。僕は若い頃から、「ジャイアンツに勝ちたい。セ・リーグに勝ちたい」という思いをずっと持っていました。ある面ではコンプレックスみたいなものでしたね。だから、日本シリーズに関しては、「パ・リーグの代表として、セ・リーグチャンピオンを倒して日本一になりたい。目立ちたい」という思いがすべてでしたね。

(後編に続く)