〜第19回目〜 半田守(はんだ・まもる)さん/28歳 レスリング選手→株式会社sonraku、レスリングウエア事業 取材・文/佐藤主祥 レスリングの各世代で何度も頂点を極めたにも関わらず、競技とは全く関係のない異色のキャリアを築いたの…

〜第19回目〜
半田守(はんだ・まもる)さん/28歳
レスリング選手→株式会社sonraku、レスリングウエア事業

取材・文/佐藤主祥

レスリングの各世代で何度も頂点を極めたにも関わらず、競技とは全く関係のない異色のキャリアを築いたのが、半田守さん。高校、大学の全国大会、さらには国際大会でも優勝した経歴を持つ実力者だが、一度も五輪を目指すことなく、競技の第一線から退いた。彼は一体、どのような人生を歩んだのだろうか。

レスラー人生を歩むきっかけは、生まれ故郷である京都府京丹後市網野町の地域性にあった。同町は、地域スポーツクラブの活動としてサッカーとレスリングが盛んなため、何か競技を始める場合は、選択肢としてこの2つに絞られていたという。半田さんは、友達がレスリングをやっていたこともあり、6歳からマットに上がり始めた。

小学生の時は、地域クラブの網野町少年レスリング教室に週2回のペースで通い、中学校・高校では学校の部活動へ入部。2005年の全国中学生選手権42キロ級や、2008年の全日本ジュニアレスリング選手権50キロ級などで優勝し、中学校・高校でそれぞれ日本一に輝いた。この小学校〜高校までの練習には、全て同じ指導者から教えを受けていたという。

「僕が教えていただいた吉岡治先生は、中高の部活に加えて小学校のレスリング教室にも指導に回られていたんですね。だから僕は一貫して吉岡先生に育ててもらいました。いわば恩師というべき存在です」

高校卒業後は、スポーツ推薦で専修大学へ進学。恩師からの後押しと、ソウル五輪フリースタイル52キロ級で金メダルを獲得した佐藤満氏が指導者として在籍していたため、同校へ進むことを決意。その後も、活躍は止まることを知らず、2011年全日本大学選手権や2013年デーブ・シュルツ記念国際大会で優勝。その他の大会でも常に上位に君臨し、五輪候補のレスラーとして注目を浴び続けた。

それでも半田さんは、五輪出場への想いは一切抱いていなかったという。

「その理由は2つあります。1つ目は、日本体育大学にいた森下史崇というライバルの存在です。僕はこの選手に、高校のインターハイで対戦してから一度も勝てなくて。大学に進学してからも歯が立ちませんでした。それがきっかけで、自分の実力に限界を感じました。

2つ目は、主体性を持って競技に打ち込めなかったことが挙げられます。というのも、僕は吉岡先生の下でずっと厳しく育てられてきたので、自分のためにレスリングをするというよりも、吉岡先生に納得してもらうために戦ってきました。だから、大学生の中で1番になった時に『これで先生も納得してくれるだろう』と思ってしまったため、それ以上のレベルを目指したい気持ちが湧かなかったんです。

今振り返れば、100パーセント自分のために試合をしたことはなかったように思えます。もちろん、勝つこと自体は好きだったので、勝利した時の快感はありました。しかし、結局は主体性のない競技人生を歩んでしまったことが、レスラーとして上を目指し続けようというマインドに歯止めをかけてしまいました」 大学卒業後は、国士舘大学の大学院に進んだ半田さん。恩師である吉岡氏から『指導者として母校に帰ってきてほしい』という想いに応えるべく、体育教員免許を取得するために同院への進学を選択。また、佐藤氏から競技続行を勧められたこともあり、大学院での2年間は現役を続けながら学業を両立。同時に専修大学のコーチも務めた。

こうした生活を続けていく中で、ある転機が訪れる。

専修大学レスリング部の関係者に加え、大学院の講師たちとの交流によって視野が広がり、幅広く人生を考えることができるようになったのだ。これまで、人生のほとんどをレスリングに捧げてきた半田さんにとって、さまざまなジャンルで活躍する人たちとの出会いや話は、これ以上ないほど刺激的だった。

「いろんな人に触れ合うことで考え方が変わり、自分がやりたいことに挑戦してみたくなったんです。地元に帰るのではなく、一度社会に出てみたいなって。そう思い始めてからは、就職サイトに登録して、普通に就職活動をしました。その中でいい会社と巡り会い、内定をいただくことができたんです」

新たな人生を、自分自身の判断と責任で決めた半田さん。実際に入社が決まったため、恩師に断りを入れようと、恐る恐るスマートフォンを手に取った。

「もうガタガタ震えながら、吉岡先生に『すみません、僕は帰れません』と伝えました。やはり、めちゃくちゃ怒られましたね(笑)。もう僕は謝ることしかできませんでした。でも、秘めていた想いを全て吐き出したことで、ある種の開き直りともいえますが、自分の中で迷いがなくなったんです。そこから人生のギアが一気に切り替わりましたね」

恩師に対して初めて自分の気持ちを口にしたことにより、変化が起きた半田さん。言葉を発することは、自分を表現すること。その想いを伝えたことで心が動き、自らを主体的な活動へと導いた。 こうして大学院修了後、他社ブランドの製品を製造するOEMの企業に入社。主にスポーツやアニメ、ミュージシャンのライブなどのグッズ制作し、生産していく。営業部への配属となった半田さんは、1年目から外回りをする日々を送っていった。

企業に就職し、初めてレスリングから離れることになったが、仕事に対する熱量は現役時代と変わらない。

「営業でも、どうしても勝ちにこだわってしまうんですよ(笑)。社内でトップの成績を上げるために、誰よりも働いていた自信がありますから。実際に、一般社員部門で1位になることができたので、レスリング以外のことで結果を残せたということは、大きな自信になりましたね」

だが、たった一人だけ成績を上回ることができなかった。その人物は、常に社内全体でのトップの位置を保ち続けられるほどの、圧倒的な仕事量をこなしている。

「上司である岩渕課長には全く敵いませんでした。むしろ僕よりも役職が上にも関わらず、めちゃくちゃ働いているので、本当に頭が下がります。それに、課長はものすごく優しいんです。僕は以前、お客様とのアポイントの時間を間違えてしまったことがあるのですが、課長は怒るどころか、逆に“ごめんな半田、俺が全然管理できてなかったばかりに申し訳ない”って謝られてしまったんです。『ここで謝られるのかぁ…』って(笑)。仕事もできるだけでなく、本当に懐の深い方なんですよ。

そんな方がいたからこそ、『もっと頑張らないといけない』と自分の仕事と向き合い続けることができました」

上司や職場環境にも恵まれ、初めての仕事に対して働きがいを感じるようになった半田さん。レスリング人生で培った“勝負師マインド”も、収めた成績によって順位を競う営業職に活きている。アスリートからビジネスマンへ、大きな一歩を踏み出した。(前半終わり)

半田守さん記事後編

(プロフィール)
半田守(はんだ・まもる)
1990年生まれ、京都府出身。2010年専修大学に入学後、2011年全日本大学選手権や2013年デーブ・シュルツ記念国際大会で優勝。卒業後は、国士舘大学大学院に進学、現役を続けながら学業を両立していたが、就職を機にレスリングを引退。2018年1月、バイオマス事業やコンサルティング事業を行うsonrakuの活動に参加し、岡山県西粟倉村に移住。加えて、自身のレスリングウエア事業「MAMO」を開始。

※データは2019年3月20日時点

※スポーツ庁委託事業「スポーツキャリアサポート戦略における{アスリートと企業等とのマッチング支援}」の取材にご協力いただきました。