1999年ワールドユースについて振り返る南雄太世界2位の快挙から20年......今だから語る「黄金世代」の実態第2回:…

1999年ワールドユースについて振り返る南雄太
世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第2回:南雄太(1)
第1回:小野伸二はこちら>>
それは、突然の招集だった。
1999年ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会を控えていたU-20日本代表が、大会2カ月前にフランス&ブルキナファソ遠征を実施。A代表との兼任でU-20日本代表の指揮官も務めることになったフィリップ・トルシエ監督は、その合宿メンバーに前回の1997年マレーシア大会にも出場したGKの南雄太を急きょ招集した。
1999年大会からレギュレーションが変更され、それまで1回しか出場できなかったものが、年齢さえクリアしていれば、複数回の出場が可能になったからだ。
そしてそのまま、南は本大会に臨む18名のメンバー入りも果たした。
「最初、(小野)伸二やタカ(高原直泰)とかとは、静岡県選抜でずっと一緒にやってきて、あの世代はメンバーがそろっていたので、(一緒に)ナイジェリアに行けないのは『残念だな』って思っていたんです。それが、急きょ行けることになったので、すごくワクワクしましたね。
ただ、前回大会に出場した僕と永井(雄一郎)くんがまた呼ばれて、メンバーから落ちた選手もいる。その分、『やらないといけない』という使命感は強くなりました。自分としても、前回大会準々決勝のガーナ戦で、自分のミスで失点して負けてしまったので、それを取り戻したいというか、その壁を越えたいと思っていましたね」
南と永井のメンバー入りは、事前にプレー映像を見たトルシエ監督からの強い要望があったからでもあるが、チームに合流した南は、トルシエ監督の指導方法に面食らった。
「通常、GKの練習はGKコーチが指導するのが普通ですが、トルシエ監督が(GK練習の場にも)やってきて『あーしろ、こーしろ』と結構指示を出してくるんですよ。それは、新鮮というか、驚きでしたね。たとえば、クロスボールのときは『前に出ろ!』と散々言われましたし、前に出ないと『なんで日本のGKは前に出ないんだ』って、すごく怒られました。
クロスボールを上げて、2、3人の選手が(ゴール前に)突っ込んでくるなか、GKが前に出るという練習もやりました。その際、(トルシエ監督は)突っ込んでいく選手に対して、『GKにぶつかっていけ!』って言うんですよ。それも、試合の2日前とかに。(そんな練習には)『なんだよ』って思いながらやっていましたけど、まあ若いから(文句も言わず)やれたんでしょうね(苦笑)」
GK練習だけでなく、トルシエ監督が志向する戦術のベースとなる"フラット3"も独特なもので、習得するのは容易ではなかったという。
「あの当時、"フラット3"でラインをあれだけ高く保つとか、結構前からプレスにいくとか、Jリーグ(のクラブ)でやっているところはなかった。これは、同じメンバーで、時間をかけてこなしていかないと、息を合わせるのは難しいと思いましたね。
事前合宿でも練習しましたけど、紅白戦とか実戦形式の練習をあまりやらないので、もうひとつ感覚がつかめなかった。大会前の練習試合でもまだしっくりいっていなかったので、(本番が)ちょっと心配でした」
大会直前の練習試合、フランスのASレッドスター93(現レッドスターFC)とのテストマッチは1-0で勝利したものの、"フラット3"は不安定なままだった。ラインを上下する選手間の呼吸が合わず、相手に簡単に裏を取られた。
結局"フラット3"の肝であるラインコントロールに大きな不安を残したまま、チームはワールドユースの開催地であるナイジェリアに入った。
「現地入りしてから、トルシエ監督はA代表の試合(ブラジル戦)があって、しばらくいなかったんですよ。しかも"フラット3"はまだまだ(未完成)で、正直『どうなるんだろう』と思っていました。
それでも、初戦のカメルーン戦は1-2で負けたんですけど、自分たちのミスでやられただけで、内容的には相手をチンチンにしたんですよ。そしてその試合のあと、イングランド対アメリカの試合をみんなでスタンドから見ていて、『ここから2連勝、イケるな』って、みんなが思ったし、自分もそう確信していました」
実際、日本はその後、アメリカに3-1、イングランドに2-0と勝利して、グループリーグを首位で突破した。南はそのとき、チームに対する絶対的な自信を感じていた。
「まだ、3試合終わっただけだったんですけど、相手チームに伸二よりもうまい選手がいなかったんです。それに実際に戦ってみて、どのチームも自分らより強くないと感じた。今思えば、20年前の日本がそういう感覚を持つというのは信じられないことだけど、あの世代、あのメンバーだから、自信を持ってそう思えたんだと思います」
日本は当時、前年の1998年に初めてワールドカップ(フランス大会)に出場した。日本という国がようやく世界のサッカーに認知され始めたばかりの頃に、この若き日本の代表チームは、世代別とはいえ、世界の強豪が集う大会にあって「自分たちは強い」と思ったのだ。

小野伸二の存在は
「黄金世代」の中でも際立っていたという。photo by Yanagawa Go
そのチームの象徴とも言える存在が、小野だった。南は、小野はすべてを兼ね備えたプレーヤーとしてリスペクトしていたという。
「当時の伸二は、マジでヤバかった。本当に『すげぇな、こいつ』って感じでした。プレーだけじゃなくて、人間性もそうだし、キャプテンシーもすごかった。とにかく、チームメイトの伸二に対する信頼感がすごくて、『伸二がいれば』という状態になっていた。
あの個性的な世代がひとつにまとまることができたのは、伸二という存在がいたから。それほど、飛び抜けた存在の選手だった。
だから、あの1999年の大ケガ(※)さえなければ、どうなっていたんだろう......って思いますよね。それこそ、バルセロナとか、レアル・マドリードとかに初めていく日本人選手になっていたのかなぁって思います」
※1999年シドニー五輪アジア1次予選のフィリピン戦において、小野は相手からの悪質なタックルを受けて左膝靭帯断裂という重傷を負った。
チームは"エース"の小野を中心として、初戦の敗戦から立ち直り、決勝トーナメントに進出。以降も、1回戦でポルトガル、準々決勝でメキシコ、準決勝でウルグアイを破って、ついに決勝戦まで駒を進めた。
決勝進出に至るまでの、ポイントとなった試合はどのゲームだったのだろうか。南はこう語る。
「グループリーグ2戦目のアメリカ戦に勝ったのが大きいですけど、一番は(決勝トーナメント1回戦の)ポルトガル戦ですね。がっぷり四つに組んだ試合でしたけど、すごく苦戦した。相手GKが負傷退場して、フィールドの選手がGKになったのに、点が取れなくて......。
今も覚えているのは、バン(播戸竜二)が途中から出てきて、決定的なシュートをその(フィールドプレーヤーの)GKに取られたんですよ。そういうのもあって、なんかイヤな雰囲気だった。
結局、PK戦までもつれてしまいましたけど、"素人GK"には負けられないですからね。みんな、PK戦ではしっかり決めた。『これは手強いな』という相手に勝つことができたのは大きかったと思います。
前回大会のときは決勝トーナメントに入ると、格上の相手をなんとかして倒す、といった感覚でした。でも、このときはそういう感じはなかった。(試合を)やればやるほど、『強いな、オレらは』って思っていました」
南は1997年マレーシア大会にも出場している。チームは山本昌邦監督が指揮し、宮本恒靖がキャプテンを務め、柳沢敦、明神智和、中村俊輔らが中心メンバーだった。宮本を軸によくまとまったチームで、決勝トーナメント1回戦は突破したものの、準々決勝でガーナに敗れてベスト8に終わった。
1997年大会、1999年大会とふたつの代表チームを知り、両方の大会を経験している南だが、勝ち上がる際のチームのムードに違いはあったのだろうか。
「1997年のチームには、ツネさん(宮本)とか、(のちに2000年の)シドニー五輪のメンバーとなる選手もたくさんいて面白かったけど、"ファミリー感"は1999年のチームのほうが強かった。(1999年大会の開催地)ナイジェリアではあまり外に出られないし、何もやることがなかったので、みんないつも一緒にいた。そういう環境が大きく影響したと思います。
それに、ブルキナファソの合宿から本大会に入っても、苦しいときを一緒に乗り越えていった。それが、ファミリー感を強くして、絆の深さにつながった。だから、20年経った今も(当時のメンバー)みんなと、LINEでつながっているんです」
LINEには、ナイジェリアのワールドユースに出場した選手たちがグループで登録されている。誰かの誕生日や移籍、引退などの情報があると、通知音が鳴るという。
20年前、そんな仲間たちがひとつになって、世界の頂点を目指していたのだ。
(つづく)
南雄太
みなみ・ゆうた/1979年9月30日生まれ。神奈川県出身。横浜FC所属のGK。若くして頭角を現し、1997年、1999年と2度のワールドユースに出場。静岡学園高→柏レイソル→ロアッソ熊本