ラクロスに全てを捧げた四年間 永廣めぐみ(スポ=米国・ラファイエット)はいつも笑顔でインタビューに応じてくれた。試合に勝利した日はさることながら、敗れて気分が落ち込んでいるはずの日も。この一年間、主将としての強さを幾度となく見せてくれた永廣…

ラクロスに全てを捧げた四年間

 永廣めぐみ(スポ=米国・ラファイエット)はいつも笑顔でインタビューに応じてくれた。試合に勝利した日はさることながら、敗れて気分が落ち込んでいるはずの日も。この一年間、主将としての強さを幾度となく見せてくれた永廣に、女子ラクロス部で3回あったというターニングポイント、そして主将としてのラストイヤーを踏まえながら迫っていこう。

 1つ目の転機は大学1年時の11月にさかのぼる。永廣は小学4年時に部活でバスケットボールを始め、父親の転勤で米国の現地校に通った高校時代も競技を継続。ただ、日本が好きという理由から一人で日本に戻り、スポーツ科学部の帰国子女枠で合格した早大のバスケットボール部はレベルが高く、入部は断念した。そこでサークル活動を楽しむことも考えたが、何かに本気で取り組みたいと思い、カレッジスポーツとも言われるラクロスの道を歩むことに。やればやるほど楽しいと感じていた永廣は徐々に才能の片鱗を見せる。新人戦サマーステージ後にはBチームに入り、Vリーグで出場機会を獲得した。そのVリーグで早大は順調に勝ち上がり、準決勝で慶大と相対する。この試合に敗れはしたが、1年生ながら2ゴール1アシストの大車輪の活躍を披露した永廣。ラクロスを始めてから約半年で一番楽しいと思えた瞬間であり、「こうした瞬間のために頑張ろう」と心に誓った。

 その後Aチーム入りを果たした永廣は、2年時には早慶定期戦(早慶戦)のメンバーにも選出された。そして早大が勝っている状況下でついにスタンバイの指示が出る。しかし時計の針が進んでいくものの一向に出場機会が訪れない。最終的に永廣がこの試合に出場することはなかった。チームは実に10年ぶりの勝利に酔いしれており、永廣も歓喜の輪に加わったが、ふと「私は何もしていない」という気持ちに駆られ、悔し涙が頬を伝った。今まで順調に歩んできた競技生活で初めてぶつかった大きなカベを前に、「このままではダメだ」と奮い立った。

 2年生ながらにAチームの試合に出場していた永廣の思考は、自然とチームへと向かうようになる。3年生では幹部となり、チーム作りを先輩たちと担うことで、責任感は強まっていったそんな中さらにその責任感が出来事が起こった。一緒にMFとして出場していた4年生の原ひかり氏(平30人卒)が膝の大怪我を負ったのだ。日本代表にも選出されるほどの実力者である原の離脱はチームに不安をもたらすと感じた永廣は、「りんさん(原)よりうまくなって、りんさんが安心して試合を見ることができるくらいチームを引っ張っていこう」と腹をくくった。これが3つ目のターニングポイントである。


主将として、ポイントゲッターとして、チームをけん引した永廣

 このような転機を経験してきた永廣は、大学ラストイヤーに主将としてチームを支え続ける。日本女子ラクロス界のトッププレーヤーである山田幸代をアシスタントコーチに招へいしたチームは、春先の実戦機会を通して着実に力をつけていったと信じていたが、5月の早慶戦では2-9の大敗を喫してしまう。その原因をメンタル面にあると分析した永廣は、一つ一つテーマを設定し、あまり話すことがない上級生と下級生を積極的に話し合わせ、チーム全体の精神面の成長を企図した。それに加え、自分に自信が持てないことがメンタル面に悪影響を及ぼすと考え、自主練習などを促し、自分自身で自信を持つ行動をチームに植え付けた。関東学生リーグ戦ブロック戦では、最初の2試合での連敗スタートから、チームは盛り返して2連勝を飾る。ブロック戦での敗退となり、日本一という目標に届かなかった一年にはなったものの、「チームづくりとしてはいいチームになった」と胸を張って答えた。

 永廣はこの日も笑顔でインタビューに応じてくれた。いつもと違うのは松葉杖をついていることである。元々痛めていた永廣の膝は、早慶戦後にはすでに限界を迎えていた。だが「試合に出ない判断はできなかった」という永廣は、痛々しいほどのテーピングを巻いてグラウンドに立ち続け、ブロック戦全5試合で得点を挙げた。誰よりも強い責任感が体を動かし続けたのだろう。卒業論文のテーマにも設定するほど熱中したラクロスを社会人でも続けるためにも、このタイミングでの手術に踏み切った。そしてラクロスは2028年に五輪正式種目となる可能性が高まっており、永廣も当然そこを見据えている。日本中の人々が『永廣めぐみ』、いや世界中の人々が『Megumi Nagahiro』と口にする日がきっと来るはずだ。

(記事 石井尚紀、写真 村上萌々子)