世界2位の快挙から20年......今だから語る「黄金世代」の実態第1回:小野伸二(1)「狙いは優勝ですから」 今から2…
世界2位の快挙から20年......
今だから語る「黄金世代」の実態
第1回:小野伸二(1)
「狙いは優勝ですから」
今から20年前の1999年4月4日。ワールドユース(現U-20W杯)・ナイジェリア大会の初戦となるカメルーン戦の前日、U-20日本代表の小野伸二は6本パックのペットボトルを両手に抱えながら、そう語った。
だがこのとき、チームの多くの選手はまだ、そこまでの思いには至っていなかった――。

20年前の快挙を振り返る小野伸二
1999年4月5日、ワールドユース・ナイジェリア大会の初戦、日本は最悪のスタートを切った。カメルーン相手に、FW高原直泰が先制ゴールを決めながらも、ミスから同点ゴールを奪われて、最終的に1-2で逆転負けを喫した。
国際大会の初戦の重要性は今も昔も変わらない。負ければ、グループリーグ突破がより困難になる。
しかし、小野は違っていた。当時を振り返って、小野が語る。
「負けたけど、初戦(の内容)は悪くないと思っていました。むしろ、そこから余計な計算をしなくて済むからよかった。もう(あとは)勝つだけなんで」
決して強がりではなかった。小野はチームに確かな手応えを感じていたのだ。
「僕は、初戦のカメルーン戦が(その後の快進撃の)最初のポイントになったと思っています。タカ(高原)の得点シーンって、大会前に自分が描いていたものと、まったく同じだったんです。
僕から(右サイドの)トモちゃん(酒井友之)に出して、トモちゃんから(中央へ)クロスを入れて、タカが決める――そういう絵が自分の中で出来上がっていて、それが現実に先制点になった。(ゴールが)決まった瞬間、『これ、夢みたいじゃん』って思ったんですよ。
(試合は)1-2で負けてしまったけど、内容では自分たちのほうが勝っていた。楽しくやれたことが重要で、まったく負けた気がしなかった。だからそこで、『自分たち、やれるじゃん』という自信を持つことができた」
負けてもなお、自信を持てるということは、なかなかないことだ。
国際大会で初戦を失うと、精神的に追い込まれることが多く、巻き返すことは容易ではなくなる。それは、日本が出場したW杯ドイツ大会(2006年)、W杯ブラジル大会(2014年)でも見られたシーンである。
だが、小野は当時も「自信を失う必要はないですよ。いいリズムで戦っていたし、ミスで負けたことで、1点の重みを全員が理解すれば、同じミスはしないでしょう」と言って、試合後に笑顔さえ浮かべていた。
その自信はどこからくるのか――。
このワールドユースに臨んだ面々はその多くが、小学生や中学生の頃から都道府県のトレセンや世代別の代表で一緒にプレーし、お互いの性格やプレーなどを熟知していた。さらに同世代は、1994年U-16アジアユース選手権で優勝。1995年Uー17世界選手権(現U-17W杯)・エクアドル大会に出場し、世界レベルも肌で感じていた。他にも、海外遠征などを通じて、多くの経験を共有し、ともに成長してきたのだ。
「もう昔から一緒にやってきたメンバーだったので、プレーで言えば"あうんの呼吸"で、とくに話をせずともやれていた。この大会のときも、特別な話はしていない。
また、A代表だと、世代も違うし、いろいろなサッカー観を持っている人がいるので、まとまるのがなかなか大変だけど、僕らは同世代だし、みんなが同じ感性でサッカーをやっていて、本当に楽しかった。僕は、それが一番大事なことだと思うし、だからこそ、"イケる"という手応えを感じていたんだと思います」
小野の言葉どおり、2戦目のアメリカ戦では、日本はオウンゴールを含めて3得点を奪取。絶対に負けられない試合で、3-1と快勝した。
ただこの試合で、チームを率いるフィリップ・トルシエ監督から、小野は後半途中に交代を命じられている。小野はピッチを去ると、厳しい表情のままロッカールームに直行した。
試合後、小野は「(試合に)勝ててよかったです。でも、自分の仕事はさっぱり......。交代させられて当然。決定的なシュートを外して、気分的に滅入って(プレーが)消極的になってしまった」と、モヤモヤした心境を語った。
続くイングランド戦も、アメリカ戦の勝利で勢いに乗る日本が試合の主導権を握った。そして、途中出場の石川竜也が鮮やかなFKを決めるなどして、2-0と勝利。日本はグループリーグの1位通過を決めた。
小野はホッとした表情を見せていたが、「もうひとつ乗り切れない」と、自分のプレーに関しては少しイライラしていた。
もちろん誰ひとりとして、小野のことをあれこれ言う選手はいなかったのだが、それでも小野は自分に厳しかった。チームの"エース"であり、キャプテンでもありながら、自分本来のプレーができず、チームの勝利に貢献できていないことが、小野には心苦しかったのだ。
小野がこのチームのキャプテンに指名されたのは、大会直前だった。
「(事前合宿となる2月の)ブルキナファソ遠征では、イナ(稲本潤一)がキャプテンだったので、(本番でも)そのままいくだろうと思っていたら、イナが大会直前に負傷。すべての試合に出るのが難しい状況になったので、それで自分がキャプテンを任されたと思う」
ワールドユースの前年、1998年に浦和レッズ入りすると、小野は高卒ルーキーながら、いきなりレギュラーの座を獲得。W杯フランス大会のメンバー入りも果たした。同大会のジャマイカ戦に出場し、18歳にしてW杯の舞台に立った。
技術は日本トップクラスであり、人格者であり、チームの細かいところにまで目が行き届く。試合になれば、攻撃だけではなく、守備のために自陣深くまで戻った。"天才"がそこまでする姿に、チームメイトは心揺さぶられ、自らが持っている以上の力を発揮する。
まさにチームの中で、小野は突出した存在だった。誰もが一目置いていて、キャプテンは小野以外には考えられなかった。
ゆえに、まずは自分がやらなければいけない――その意識が根本に、しかも強く刻まれていたからこそ、小野は自分に厳しかった。
「みんなが自分のことをどう思っていたのかはわからないけど、個人的には、グループリーグの3試合はまったく満足していなかった。ただ、チームのみんなは、技術レベルが高く、いいプレーをしていた。とくにモト(本山雅志)はキレッキレだったからね。そうして、ひとつずつ試合を勝っていくことで、チームとしてもまとまっていきました」
グループリーグを首位で突破した日本。決勝トーナメント1回戦の相手は、ポルトガルだった。
「個人的には、この試合がこの大会で一番大きなポイントだったと思います」
そう小野が語るとおり、ポルトガル戦は死闘になった。
試合は後半3分、遠藤保仁が先制ゴールを決めて日本がリードを奪った。そしてその後、後半27分に高原と相手GKが衝突。鎖骨を骨折したGKは負傷退場を余儀なくされる。
実はその時点で、ポルトガルはすでに3人の交代枠を使い切っていた。そのため、フィールドプレーヤーがGKを務めることとなり、ポルトガルはひとり少ない10人での戦いを強いられた。日本にとっては俄然有利な状況だが、このアクシデントがポルトガルの闘争本能に火をつけた。
日本はひとり少ないポルトガルの気迫に押され、後半35分に同点ゴールを決められると、ガクンと動きが落ちた。現地の暑さと、グループリーグ3試合を戦ってきた疲労の蓄積によって、日本の選手たちは"ガス欠"に陥っていたのだ。
トルシエ監督は流れを変えるべく、延長戦からFW播戸竜二を投入したが、ポルトガルの勢いが収まることはなかった。それでも、ポルトガルの反撃を何とか凌いで、試合はそのままPK戦に突入した。
PK戦を前にして、トルシエ監督は「蹴りたい者」を自主申告させ、小野は1番手のキッカーを務めた。その小野はじめ、日本の選手たちが冷静にPKを決めていくなかで、ベンチの選手たちは全員が肩を組んで、その様子を見守った。
ポルトガルも失敗することなく、息詰まるPK戦となったが、GK南雄太がポルトガル4人目のPKを好セーブ。その後、日本は4人目の高原、5人目の酒井もきっちりPKを成功させて勝利した。

PK戦までもつれたポルトガル戦を制して、さらに勢いがついた。photo by Yanagawa Go

酒井が決めた瞬間、センターサークルで、ベンチ前で、祈るように見守っていた選手たちが皆、ゴールに向かって走り出し、歓喜の輪ができた。
「相手がひとり少ないにもかかわらず、苦戦を強いられたけど、ああいう苦しい試合を乗り越えて勝つことが大事。カメルーン戦で"イケる"感覚をつかんで、ポルトガルに競り勝って(チームは)勢いに乗った。大会を勝ち進んでいくためには、ポイントになるゲームが必ずあるんですけど、このポルトガル戦がまさにその試合でしたね」
チームはひとつ大きな山を越えた。
小野は、カメルーン戦で自信をつかみ、ポルトガル戦で世界と互角に戦える確信を得た。本来であれば、対戦を避けたいと思うアルゼンチンなど、強豪国との対戦にも期待を膨らませていた。
「自分たちが新しい歴史を作る」
その機運がチーム内でうねりのように大きくなりつつあった。
(つづく)
小野伸二
おの・しんじ/1979年9月27日生まれ。静岡県出身。北海道コンサドーレ札幌所属のMF。日本サッカー界屈指の「天才」プレーヤー。1995年U-17世界選手権、1999年ワールドユース、2004年アテネ五輪に出場。W杯出場は3回(1998年、2002年、2006年)。清水市商高→浦和レッズ→フェイエノールト(オランダ)→浦和→ボーフム(ドイツ)→清水エスパルス→ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ(オーストラリア)