元日本代表の長谷部誠が所属するフランクフルトは、昨季のドイツ杯で30年ぶりに優勝し、今季のブンデスリーガでは3月5…

 元日本代表の長谷部誠が所属するフランクフルトは、昨季のドイツ杯で30年ぶりに優勝し、今季のブンデスリーガでは3月5日時点で5位。リーグと平行して行なわれているヨーロッパリーグではベスト16入りを決め、ベスト8進出をかけたインテル戦を控えている。


ドイツ通算12年目、フランクフルトで5年目のシーズンを戦う長谷部

 

 そんな好調のフランクフルトには、舞台裏で選手たちの活躍を支える日本人スタッフがいる。2014年にメディカルトレーナーとしてチームに加入した黒川孝一だ。

 学生時代、サッカーに打ち込んでいた黒川は、高校卒業後に大阪医専メディカルトレーナー学科を経て平成医療学園専門学校に入学。選手時代に治療を受けていた”師匠”の診療所で研修しながら、スポーツ外傷を施術できる「柔道整復師」と、「鍼灸師」の資格取得を目指した。
さらに専門学校では、ガンバ大阪でフィジカルコーチを努めていた吉道公一郎(現FC東京)のゼミを通じ、「プロの現場での動き方を教わった」という。さまざまなノウハウを学び、無事に資格を取得して卒業。プロサッカークラブで仕事ができる可能性もあったが、恩返しの意味も込めて”師匠”の診療所で1年間仕事を続けた後、2009年に独立した。

 自身の診療所を開設してからは、近所にあった奈良県立香芝高校サッカー部のトレーナー兼フィジカルコーチとしても活動した。第91回全国高校サッカー選手権に出場したチームに帯同するなど、スポーツの現場でキャリアを積み上げていた時に、サッカージャーナリストの小谷泰介と出会ったことでドイツへの道が開かれる。

 鍼灸を欧州に広める活動を行なっている小谷は、当時ヴェルダー・ブレーメンの監督を退任したばかりだったトーマス・シャーフと友人関係にある。そんな小谷から「仕事につながる保証はない」と念を押されながらも、シャーフを紹介してもらった黒川は、当時のコーチングスタッフが集まるなかで実際に診断や施術を行なった。

 その時は評価を得ただけで帰国となったが、約1カ月後に「トーマス・シャーフ、フランクフルトの監督に就任」というニュースが飛び込んでくる。すぐさま小谷に連絡を入れると、数日後に「シャーフ監督から『(フランクフルトの)キャンプに参加するように』と返答があった」と伝えられた。

 フランクフルトに加入した黒川は、日本とドイツでは「トレーナー」の役割が異なることに気づく。日本で「トレーナー」といえば、治療のみならず筋力トレーニングの指導まで行なうアメリカの定義に倣っているのに対して、ドイツでは「フィジオセラピスト(理学療法士)」としての役割が一般的だという。

 つまり、ドイツ人の”フィジオ”の多くは、自身を「治療の専門家」とみなしているのだ。治療に専念するために、グラウンドに出たがらないトレーナーも多いという。



フランクフルトでメディカルトレーナーを務める黒川

「こっちのフィジオは、資格や自分の専門性があるところで勝負している。治療なら治療の専門家としてアピールして、『それ以外の分野は自分の領域ではない』と。私が現場の監督さんやスタッフから気に入られている点は、ドイツ人のフィジオがやらない部分を埋めているからなのかな、と思います。たとえば、どうすればトレーニングが円滑に進むのかを考えたりすることですね」

 役割分担がハッキリしている組織で生き残るためには、自分の”色”を出すことが重要だ。フランクフルトでは、選手自身が施術の担当トレーナーを選ぶシステムを採用している。そのなかで他のトレーナーたちとの違いを生み出すために、黒川は電動器具を使わず、鍼と指での治療に専念しているという。

 また、常にトレーニングに帯同することによる「選手との距離の近さ」も、黒川の特徴としてチームに認識されているようだ。

「練習中はなるべく選手の近くにいたいと思っています。練習を見て動きを覚えるのも勉強ですし、選手の動きが普段と違うと気づいた時に『今日はどうした? 痛みがある?』と会話をすることで、そのまま治療という流れにもなる。そういうことを最初からやっていたので、今は選手から評価されていると思いますね」

 チーム内で評価を上げた黒川は、試合の勝敗に直結する仕事を担っている。メディカルトレーナーはケガ人を治療するトレーナーと、試合に出られる選手の身体のメンテナンスを行なうトレーナーに分かれるが、現在の黒川は直近の試合に絡む主力選手たちを含む、約半数の選手のケアにあたっているという。

「僕の役割は、ケガをしていない選手や試合に出場しそうな選手のケガの予防、慢性的に痛みがある箇所を悪化させず、回復に向かうようにすることです。なかには、『体を軽くして試合に臨みたい』、『動きがよくなるような感覚を持ちたい』、『試合前にしっかり寝られるようにしたい』と要望してくる選手もいますね。

 体に関する不安がストレスになって、それが試合に出てしまうこともありますから、体のケアはメンタル面の安定にもつながっています。カウンセラーのようなアプローチではなく、僕は治療やケアのやり方、時間のかけ方で(選手の体に関する不安がなくなるように)意識しています」

 選手のことをより近くで診ている黒川は、国や地域による特徴は「身体面よりも性格に出る」と話す。海外の選手は自分のことをメインに考えて”我を通す”ことが多いのに対し、日本人選手は周囲のことを考え、チーム全体を見て動けることが特徴だという。「どちらにも良し悪しがありますけどね」とつけ加えたが、日本人選手の真面目さはブンデスリーガでも際立っているようだ。

 これまで黒川は、かつてフランクフルトでプレーしていた乾貴士(アラベス)や鎌田大地(シント=トロイデン)のケアも行なってきたが、なかでも長谷部の真面目さ、試合に向けた準備には驚かされるという。

「彼がすごいのは、他によっぽど重要なことがない限り、ルーティンを変えないこと。普段の生活や体のケアの”リズム”を大切にしていて、試合の前後に一定の頻度で治療を受けることを続けています。膝のケアを重点的にやらなければならない時もありますが、自分にとって必要なことをよく把握していますから、こちらから細かく提案をする必要はありません。僕が心配することはないですね」

 この発言からも、監督やチームメイトが長谷部のことを”プロフェッショナルの鑑”と評価するのもうなずける。長谷部に限らず、フランクフルトで活躍するベテランたちに共通している点として、黒川は「自分で自分の体のことをよくわかっていること」を挙げる。

「これ以上やると今日はまずい」という限界値を理解している選手は、決して無理をしない。対処法も心得ていて、治療する側に伝える情報も明確なため、メディカルトレーナーも対話がしやすいという。”自分自身の身体に対する関心や感度の高さ”が、現役を長く続けられる条件なのだ。

 他ならぬ黒川も、スタッフの入れ替えが激しい欧州のサッカークラブのなかで”ベテラン”の域に入ってきている。フランクフルトで5年目を迎える黒川はチーム最古参のフィジオ。組織のことも熟知しており、選手にもっとも近いスタッフのひとりとして存在感が大きくなっている。そのため、「他のスタッフを引っ張っていかないといけないのかな」という自覚を口にする。

「(長く組織で活動するために)大切なのは、チームから求められていることに応じて、適切な振る舞いをすること。『繰り返し同じミスをしない』、『ここぞというときには、しっかりと結果を出す』ということじゃないかな、と思います。僕らの仕事は、1回1回の治療が勝負。気を抜くと選手が次の回から来なくなり、仕事が無くなっていきます。ちょっとしたマッサージのお願いでも常に全力でやり、選手の”第一選択の治療家”になりたいですね」

 一方で黒川は、フランクフルトでの現状に満足するつもりもないようだ。

「日本で頑張っていたからこそ、フランクフルトでチャンスをつかめたわけですから、ここでも頑張って”次の話”がきた時にはそれを逃さないようにしたいです。今はフランクフルトでやれていますが、まだまだだなと思っています。もし、”フランクフルト”という看板がなくなって、日本に帰らざるを得なくなってしまったら、何も残らないという危機感が常にあります。個人として、どれだけ勝負できるのか。その意識を忘れずにいようと思います」

 自身の診療所を閉めてまで挑戦した欧州サッカーの舞台。その実直さと”プレーヤーズファースト”の徹底で選手からの信頼を獲得し、クラブ内でのポジションを確立した。組織全体を見渡しながら適切な行動を取ることができる”真面目”な日本人の特徴を生かして、黒川はこれからも欧州でのチャンスをつかんでいくことだろう。