名古屋グランパス・米本拓司インタビュー@前編 伊丹高校から2009年にFC東京に加入して以来、米本拓司は青赤のユニフ…
名古屋グランパス・米本拓司インタビュー@前編
伊丹高校から2009年にFC東京に加入して以来、米本拓司は青赤のユニフォームをまとって10年間プレーしてきた。ボール奪取力を武器にルーキーイヤーにレギュラーポジションを掴み、その年にはナビスコカップ制覇に貢献。その後、3度の大ケガに見舞われながらも復活を遂げ、ファン・サポーターから愛されてきた。
ところが今オフ、「愛着があった」と言うFC東京から離れる決断を下す。しかも、移籍先は、ガツガツあたる米本のスタイルとは異なり、高い技術を求められる名古屋グランパスだった。その決断の裏には、どんな想いと葛藤があったのか――。

MF米本拓司(よねもと・たくじ)1990年12月3日生まれ、兵庫県伊丹市出身
―― 率直に言って驚きました。移籍をしたことにではなく、名古屋グランパスだったということに。でも、なぜ名古屋だったのかを考えたら、うれしくなったというか。3度目のケガをした直後、引退も考えていた米本選手が、今は自分に足りないものを求めて、もっともっと成長したいと思うようになったんだなって。
米本拓司(以下:米本) まさに、そうですね。このチームが自分に足りないものを一番持っていると思いますし、安定を取るのか、成長とチャレンジを取るのか、その2択でしたね、正直。
―― 東京に残っていれば、幹部候補生として将来が約束されていたと思います。実際、引退後を考えて、そうした方向の考えに傾いた時期もあったわけでしょう?
米本 確かにありましたね。でも、今回はチャレンジしようって。
―― もちろん、相当悩んだ末の決断だったと思います。
米本 正直なところ、次のオファーがいつ来るかわからないですし、年齢的にもラストチャンスかもしれない。しかも、自分に足りないものがあるチームが誘ってくれたわけです。
もちろん「名古屋に行って大丈夫?」「合わないんじゃないか」っていう人もいましたけど、「だからこそ、足りないものを求めて行くんじゃないか」と僕は思ったし、そういう人たちを見返したいという想いも芽生えてきて。やっぱり、名古屋だからこそ行くっていうところがあって、1年後、「米本、この1年でうまくなったな」と思ってもらいたいですね。
―― チャレンジしたいという想いは、いつごろから芽生えたんですか?
米本 去年のことを話したら長くなりますけど(笑)、本当にいろんなことを考えた1年でしたね。試合に出られない時期に、「ここで俺がふてくされたら、それを見た若い選手たちはどう思うんだろう」とか。
僕がプロ1年目のころ、サリさん(浅利悟)とかが出られなくなったんですけど、決してふてくされるようなことはなかった。だから、自分も同じ境遇になって、ふてくされたら絶対にダメだと思った。このチームを変えたい、このチームを優勝させたい、という想いでやっていました。
―― シーズン中は。
米本 はい。だから、次の時代を担っていく(平川)怜や(品田)愛斗、マコ(岡崎慎)やウッチー(内田宅哉)とかには「J3で満足していたらダメだぞ」っていうことを伝えていたし、彼らがトップチームに来た時には、すんなり入れるようにパイプ役を買って出たつもりだし。自分が「J3に行け」と言われた時も、嫌がらずに行って。
でも本当は、もっとワガママをしたかったんですよ。今、試合に出ているボランチには負けてないと思っていたし、試合に出られないなら移籍させてくれ、という気持ちもやっぱりあったので。でも、それは言えない。だから、すごく葛藤していて……。
―― 3度目のケガから復帰した2017年はJ3でのプレーを余儀なくされたけど、今まさに名前を挙げた若い選手たちと将来、トップチームでリーグタイトルを獲るということを思い描いて自分を奮い立たせていた。シーズン終了後には、「もう一度、このチームでタイトルを獲りたいという気持ちが強くなった」とも言っていた。だから、このチームをよくしたいという想いと、でも、自分はこのままでいいのかという想いが去年はぶつかり合ったというか。
米本 そうですね。チームがうまく回るように、という想いは常にありましたけど、それでも途中で思ったりするんですよ。こんないい子ちゃんを演じてないで、クラブから「もうお前はいらない。出て行っていいよ」って言われるくらいワガママに振る舞っていたら、夏に移籍できたかもしれないなとか。後半戦はチームも勝てなくなってストレスも溜まったし、本当にいろいろなことを考えた1年でした。
―― 昨年夏にも、オファーをくれたクラブがあったそうですが、その時は移籍する気はなかったんですか?
米本 正直、僕は行きたかったですよ。こんなチャンス、もうないかもしれないと思ったので。だから、(長谷川健太)監督に直接、言いに行ったんですけど、「いや、お前は必要な選手だから、絶対に残ってほしい」と言われたんですよ。
―― 引き止められたんですね。その言葉が胸に響いた?
米本 いや、その時は「そんなことを言っても、使ってくれないじゃないか。俺だって試合に出たいんだ」って思いました。でも、そのころは東京もいい順位にいて、自分がチームを壊すわけにはいかなかった。
それで、東京に残ると決めた時、監督に「あの時はお騒がせしてすいませんでした。気持ちを切り替えて、優勝するために全力を尽くします」って言いに行ったんです。そうしたら、「そうか、本当にありがとう」って。そう言った手前、もうワガママができなくなったというか……。
―― 自分で退路を断ったわけですね。少なくとも半年間は東京のために、と。
米本 3回大ケガをして、このチームには本当にお世話になったし、残ると決めた以上は本当にタイトルを獲りたかった。だから、切り替えました。試合に出てない時も、モリゲくん(森重真人)と一緒に筋トレをしたり、午後練がない日に2部練をしたり。
同じように出番がなかったマコや山田(将之/現・FC町田ゼルビア)とかにも、「チャンスは絶対に転がってくる。そのチャンスを掴むために、今がんばるんだ」って話して、一緒に練習した。だからこそ、シーズンが終わった時、「自分が東京でやるべきことは、すべてやり終えたんじゃないかな」って思えたんですよね。
―― そんな時に、名古屋が声をかけてくれたと。
米本 やっぱり、プロサッカー選手は試合に出てナンボだし、いくらチームのために行動したと言っても、自分が試合に出なければ意味がない。今、自分を選手として評価してくれているのはどっちなのかと考えた時、名古屋だったというか。
―― ピッチ内の自分を評価してくれて、ピッチ内で自分が成長できそうだと思える。もう他に理由はいらないですよね。
米本 そうなんです。やっぱり東京には10年も在籍させてもらったから、自分のことよりチームのことを考える時間のほうが長くなっていて。もう1回、初心に戻ってやりたいと思ったんですよね。これが、サッカーがうまくなれる最後のチャンスなのかなって。
―― 決断するにあたって相談はしたんですか? それとも、自分で悩み抜いて決めた?
米本 しましたね。兄とかに。
―― お兄さんはなんと? 「名古屋で大丈夫か?」と言ったひとりは、お兄さんだったりするんですか?
米本 いや逆で、「めっちゃいいじゃん」と。「お前は昔から追い込まれた時のほうが成長してきたから、いいと思うぞ」って。兄は小、中って僕のチームのコーチだったので。
―― すごく怖いコーチだったんですよね。
米本 ボコボコにされました(笑)。その兄が「お前は鼻をへし折られたあとのほうが伸びてきた。うまくなりたいと思えることが一番大事なんじゃない?」って言ってくれましたし、恩師の方にも相談しました。
―― 伊丹高校時代の山本(伸吾)先生ですね。
米本 そもそも高校時代、山本先生から「時間が許すかぎり悩み抜いて、それで出した答えは絶対に正しいから」って言われていて、その言葉がずっと頭に残っていたんです。当時、僕は東京かヴィッセル神戸かで悩んでいて。
―― プロ入りする時、U-17日本代表時代の恩師である城福(浩)さんの東京か、地元の神戸かで。
米本 そうです。だから今回も、時間が許すかぎり悩み抜いたんです。山本先生にもそういう話をして。
―― たとえば、奥さんとか、3度目のケガをした直後、米本選手が引退を考えたことを知っている人たちは、「まだまだ成長したいから移籍する」という決断を聞いて、喜んでくれたんじゃないですか。
米本 どうなんですかね。でも、妻は「行きたいところに行けばいいんじゃない? 刺激があったほうがいいんじゃない?」と背中を押してくれたし、僕が「環境が変わるから、ストレスがかかるかもしれないよ」と言ったら、「全然気にしなくていいよ」と言ってくれて、ありがたかったですね。
―― 退団時のリリースに書いてあった「東京のみなさんには『嫌な選手だ』と思ってもらえるように頑張ります」という言葉が素敵だと思いました。それは「もっともっと成長する」という宣言だと思うから。そうなった時、最高の恩返しというか。
米本 そうですね。でも、あの文章だけで感謝を述べるのは難しかったです。本当はファン・サポーターの方々とお別れがしたかったんですけど、本当にギリギリで。あの発表の翌日が東京の新体制発表の日で、それまでに決めなければいけなくて。
だから、決まってすぐあのコメントを考えて、すぐに発表したんです。東京のチームメイトもネットニュースで知った人が多くて、「早く言えよ」って(苦笑)。それくらいバタバタしてました。
―― 「10年間の思いは語り切れません」とも書かれていました。もちろん、ここでも語り尽くせないんでしょうけど、一番伝えたい想いは?
米本 やっぱり、3回も大ケガをしたのに契約を更新してくれて、10年もプレーさせてくれたことは、本当に感謝しています。ファン・サポーターの方々も、そのたびに「がんばれよ」「待ってるぞ」と言ってくれてうれしかったし、恩返ししないといけないなっていう気持ちがあります。
―― だからこそ最後、挨拶の場がなかったことが悔やまれる。
米本 本当にそうですね。それに関しては、ファン・サポーターの方々には本当に申し訳ないと思っています。
―― じゃあ、東京戦のあと、ゴール裏に挨拶しに行きましょうか(笑)。
米本 さっそく3月に味スタであるんですよね。でも、まあ、結果次第ですかね(笑)。でも、東京には絶対に負けたくないですね。
(後編につづく)
【profile】
米本拓司(よねもと・たくじ)
1990年12月3日生まれ、兵庫県伊丹市出身。兄の影響で小学1年からサッカーを始める。伊丹高校時代にはU-17日本代表に選ばれ、U-17ワールドカップに出場。2010年には日本代表デビューを果たす。今季、10年間プレーしたFC東京を離れて名古屋グランパスへ移籍。