「全日本はこれで最後。勝ってこの舞台を去りたかった」――。 1月14日から大阪で開催された全日本卓球選手権男子シングルスで、史上最多となる10度目の優勝を飾った水谷隼(木下グループ)の口からこぼれたのは、全日本からの”卒業宣…

「全日本はこれで最後。勝ってこの舞台を去りたかった」――。

 1月14日から大阪で開催された全日本卓球選手権男子シングルスで、史上最多となる10度目の優勝を飾った水谷隼(木下グループ)の口からこぼれたのは、全日本からの”卒業宣言”だった。水谷は優勝会見で「応援してくれている人たちに、ぼろぼろになった姿を見せたくない」と決断の理由を語ったが、ほんの数年前、彼自身がそうした状態の自らと向き合っていたことを忘れてはいけない。キャリアの最終章を新たな筆致で描き始めた絶対王者の足跡をたどりながら、平成最後となった大会を振り返りたい。



今年の全日本選手権で、前人未到の10度目の優勝を飾った水谷

■張本の述懐で証明された「全日本は苦しくて怖い大会」

 この1年間、日本の男子卓球界の主役は間違いなく張本智和(木下グループ)だった。昨年1月の全日本選手権で水谷を破って14歳61日の史上最年少で天皇杯を手にすると、海外のワールドツアーでも活躍。10月に開幕した「Tリーグ」でも圧倒的な存在感を示し、12月のITTFワールドツアーグランドファイナル男子シングルスも最年少の15歳172日で優勝した。最新の世界ランキングは日本人選手最高の3位につけている。

 2017年5月の世界選手権デュッセルドルフ大会で初めて水谷と対戦、4-1で大金星をあげた時の張本は「まだまだすべての面で水谷さんが上。勢いだけで勝てた」と語っていた。だが、昨年の全日本決勝の舞台で再度水谷を破ると、その言動は大きく変わった。

「今回は実力で勝った」「これからは自分の時代にしたい」「今から10年後でも24、25歳。2ケタ(優勝)ぐらいは狙いたい」

 そうした強気な発言を受けたメディアの多くは、「張本時代はしばらく続くだろう」と報じるのをためらわなかったが、大阪・丸善インテックアリーナのコートに立った張本は、1年前とは違った。

 JOCエリートアカデミーの先輩でもある緒方遼太郎(早稲田大)とぶつかった5回戦では、ゲームカウント3-3で迎えた最終ゲームを1-6と先行される展開に。「負けを覚悟した」(張本)状況から逆転した底力はさすがだったが、準決勝の大島祐哉(木下グループ)戦で足元をすくわれた。

 なぜ、張本は水谷が待つ決勝のコートに立てなかったのか。
 
 大島サイドからすれば、フォアハンドの強打をラリーのなかで続けて打ち込めたこと、張本のチキータを封じるサーブが功を奏したことなどが勝因にあげられる。しかし、連覇の夢が途絶えた張本は試合後のミックスゾーンでこんな心境を吐き出した。

「これまでは自分が向かっていく立場だったけど、初めて追われる立場になって安全に、慎重にいく気持ちが強くなって、逆に相手にいいプレーをさせてしまった。全日本は苦しくて怖い大会だと感じました」

“怪物”と呼ばれる15歳の述懐を違う視点で受け止めれば、13年連続で決勝に進んだ水谷は、17歳で初めて頂点に君臨して以来、その苦しみや怖さを毎年乗り越えてきたことになる。

■全日本にかけてきた水谷の思い

「みんなと仲良くするのは今日までです。明日から全日本が始まるまで、僕から個人的な連絡は一切取りません」

 水谷からそんな言葉を聞いたのは、5連覇がかかる全日本選手権を1カ月後に控えた2010年12月のことだった。卓球専門誌の編集者や男子のトップ選手たちと一緒に夕食をとったあと、最寄りの駅で別れる際、水谷は筆者の耳元でそう言ったのだ。

「僕が一番、全日本のことを考えているし、その価値を理解していますから」と。

 全日本が始まると、食事もとれなくなるほどナーバスになる――。彼に親しい関係者からそんな話を聞いたのも同じ頃である。思い入れが強いゆえに、6連覇を吉村真晴(T.T彩たま)に阻まれた時の落胆ぶりも激しかった。

「もし来年優勝できたとしても、単なる6度目の優勝じゃないですか。僕は連覇を続けて、絶対に破られない記録を全日本の歴史に刻みたかったんです」

 王座から陥落した後、人と会うのも避けていたという水谷は電話インタビューでそう失意を語ったが、その声が聞き取りにくいほど小さかったことを覚えている。

 水谷の苦難はそれで終わらなかった。

 2012年の夏に開催されたロンドン五輪ではシングルスは4回戦で敗退、団体戦も準々決勝で香港に敗れた。五輪後はルールで禁止されている補助剤を世界のトップ選手たちの多くが不正使用している事実を告発。国際大会への出場をボイコットし、ラケットを持たない日が4カ月以上も続いた。復帰後すぐに迎えた2013年の全日本選手権では丹羽孝希(琉球アスティーダ)に破れ、2年連続で後輩に天皇杯を譲った。その後の世界選手権パリ大会では初の初戦敗退という屈辱も味わった。
 
 そして、こうした結果以上に水谷を追い詰めたのは、当時の卓球界でささやかれていたこんな批評を耳にした時ではなかったか。

「水谷の卓球は美しいが、攻めが遅い。中国に勝てるのは、丹羽のような前陣速攻のより攻撃的なスタイルだ」

 振り返れば、負の連鎖に飲み込まれたこの時こそ、”日本卓球界の至宝”と呼ばれた男の分岐点だった。

「すべてが悪い方向へ流れていって、卓球をやめようかと考えたこともありました」

 当時の取材ノートに刻まれている水谷の述懐は、こう続いている。

「でも、ぎりぎりのところで、このままだと一生後悔することに気づいたんです。自分がもっとできることを証明しないと、卓球に人生をかけた意味がない。そのためには、新しい環境で自分の卓球を変えるしかない。そう覚悟を決めて、2013年9月からロシアリーグに挑戦したんです。うまくいかない時は、楽な方向ばかりに逃げていたような気がします」

■変化をおそれず、進化を続ける絶対王者

 水谷が復活を印象づけたのも、やはり全日本の舞台だった。
 
 ロシア ・プレミアリーグのUMMCと契約、プロとして世界の強豪選手たちにもまれた水谷は体を作りなおし、邱建新(チュウ・ジェンシン)コーチをプライベートコーチとして招くと、それまで苦手にしていたチキータの習得に多くの時間をさいた。チキータからの速い攻撃を新たな武器として備えた水谷は、2014年1月の全日本で天皇杯を奪回すると、圧倒的な強さで再び連覇を重ねていったのである。

「僕を超える才能が出てこないと、打倒中国は果たせない」と公言し、後輩たちの奮起を促したのも、その絶対的な強さゆえに説得力があった。全日本に対する発言に変化が見られたのは、2017年1月の大会で歴代最多記録となる9度目の優勝を飾ったあとである。

「以前は自分が100%の力を出せば、確実に優勝できた。僕にとって全日本は自分自身との戦いだったんです。でも、今は100%の状態に仕上げても、僕を脅かす選手が出てきた。どこかで負けるタイミングがあると思うし、ちょっと楽になりたい気持ちも正直あります」

 この時にはもう、仙台から上京し、エリートアカデミーに入塾したばかりの少年にその牙城を崩されることを予感していたのかもしれない。実際、昨年の大会で張本に天皇杯を明け渡した時、水谷はさばさばとした表情で敗者の弁を語った。

「今日の張本が特別でなかったなら、何度やっても僕は勝てない。中国選手と同じくらいのレベル。彼が出てくる前にたくさん優勝しておいてよかった」

 だが、それが彼独得のユーモアだったことも今大会で証明されたのである。

 準々決勝で水谷にストレートで敗れた丹羽は、「全日本の時の水谷さんは、他の試合の時と全然違う。その気迫にこちらが受け身になってしまった」と語ったが、技術的に特筆すべきことは、プレーの引き出しの多さである。

 丸善インテックアリーナのコートで私たちが目撃したのは、10年前とも5年前とも、そして1年前とも違う、プレーの幅をさらに広げた水谷隼の姿だった。

 大島との決勝は、その集大成ともいえた。パワーで勝る大島が得意のフォアハンドを振ってきても、水谷は以前のように台から離れることはなく、フォアのカウンターを返して会場をどよめかせた。「ストップにもいろんな回転があって対応できなかった」と敗者が振り返ったように、台上の技術で圧倒すると、得意のラリー戦でも優位に立ち、大島のチキータを狙って”三球目攻撃(自分のサーブの種類によって相手のレシーブを予測し、それを狙って攻撃する戦術)”を仕掛けることもあった。

「若い人たちの卓球に、僕たちの世代は対応できない」

 優勝会見で水谷はそんな表現で全日本の厳しさに言及したが、彼が天才たるゆえんは、挫折と向き合うたびに新たな技術を習得し、プレースタイルを変える覚悟と勇気を持って進化を続けてきたことである。

 張本は今、誰よりも深くそのことを理解しているのではないか。

■もうひとつのバトンはまだ水谷の手に

 全日本の舞台に限定すれば、水谷はこれまでにない形で世代交代のバトンを後輩たちに託したことになる。

「これから年齢を重ねていくと、パフォーマンスは落ちていくだろうし、今までのような強い気持ちで全日本に臨むのも難しくなってくる。そのぶん、今大会にかける思いはものすごく強かったし、その思いがあったから優勝できたと思う」

 そう語った水谷は、記者から誘導される形で「東京五輪での金メダル」を今後の目標として公言した。だが、あえて個人的な推測を文字にすることを許してもらえるならば、水谷の気持ちがその一点に集中しているとは思えない。その根拠は、リオ五輪で銅メダルを獲得したあと、取材ノートに刻まれた彼の言葉である。

「僕がメダル以上に追い求めてきたのは、見ている人たちを感動させる理想のプレースタイルを完成させることなんです。今も限界の幅は広がっているし、確実に理想に近づいている」

 勝利の呪縛からほんの少しでも解放された今だからこそ、水谷はその夢に向かって新たな一歩を踏み出せるのではないか。日本卓球界の中心であり続けたメダリストにはまだ、後輩に託していないバトンがあるはずである。