権藤、権藤、雨、権藤──今から60年ほども前のこと、あるスポーツ新聞の見出しに、このような大きな活字が躍ったという…
権藤、権藤、雨、権藤──今から60年ほども前のこと、あるスポーツ新聞の見出しに、このような大きな活字が躍ったという。
当時、中日ドラゴンズのエース・権藤博が文字通り「孤軍奮闘」の働き。先発・完投で勝った翌日は試合後半のリリーフでマウンドに駆けつけ、雨で中止の1日をはさんで、また先発のマウンドに上る。
そんな大奮投ぶりを、簡潔明瞭な短文で表現した「傑作見出し」として、今でも多くの人の記憶に残っている。
まったく同様の状況が、今から10年ほど前の社会人球界にも、実際にあった。

2012年には最多勝、沢村賞に輝いた攝津正
攝津、攝津、雨、攝津──見出しにはならなかったが、当時、JR東日本東北(仙台市)が大会に出場すると、それが都市対抗のような大きな大会ほど、試合のたびに「攝津正」が先発で登板してほぼ完投。勝ち上がった次の試合では、今度は勝負どころのリリーフを受け持って、おっとり刀でマウンドに駆けつけたものだった。
もちろんチームには、ほかの投手がいないわけではなかった。しかし、攝津ほどの精緻なコントロールと安定した実戦力を備えた投手はなかなかいない。おのずと、「攝津依存型の投手編成」になったのだろう。
2001年に秋田経法大付高(現・明桜高校)から入社して、早くも3年目の2003年シーズンから主戦投手としてチームを背負い続けた。
決して剛腕ではない。球速はアベレージで135キロ前後。スライダー全盛の時代に、攝津の武器はタテに割れるカーブにシンカー。なかでもシンカーの使い方が見事だった。
低めのストライクゾーンからボールゾーンに落とすシンカーは、ストレートかと思うほどの速い変化。そのシンカーを高めにも使っていた。高めといってもストライクゾーンではない。打者の目の高さから落として空振りを誘う。目の高さで物が動くと、人は本能的に反射してしまう。たとえば、目の近くをハエや蚊が飛ぶと、思わず手で払ってしまう。そのように反射動作を利用して空振りを奪っているのではないか……そんな高等技術を持った投手に映った。
自分のピッチングスタイルを確立していて、勝負球もあって、大きな大会で投げてもきっちり試合をつくる。それほどの好投手だから、毎年ドラフト候補に挙げられていた。高卒出身のため解禁となる3年目から指名があってもおかしくなかったのに、いつまで経ってもプロから声がかかることはなかった。
社会人7年目の時だ。この年、25歳と脂が乗りきっていた攝津は、シーズン中から好調を続け、日本代表としてマウンドに上がったワールドカップではエース格として4戦全勝。完璧なピッチングに、ある球団がドラフトでの指名を確約してきた。
その年のドラフトは、社会人野球の日本選手権と時期が重なっており、攝津が所属するJR東日本東北の1回戦の日が、ドラフト当日だった。
苦節7年、満を持してのドラフト指名と、登板予定を変更して球場で指名を待った攝津だったが、まさかの指名漏れ……。悔しさに涙した攝津だったが、その3日後、強豪のホンダを相手に5安打完封。まさに意地の熱投だった。
「悪いところはなかったですよ。コントロール、勝負根性、変化球の精度、それにチームを背負って投げられる心意気っていうんですかね。どんな試合でも一生懸命ひたむきに根気よく投げる。状況判断ができて、安定感もあって……間違いなく計算できるピッチャーだと思っていました。それは私だけじゃない。12球団の東北担当スカウトの誰もが認めていたと思いますよ」
そう語ったのは、社会人球界の”レジェンド”になりかけていた攝津にプロへの道をつけたソフトバンクの作山和英(さくやま・かずひで)スカウトだ。東北福祉大からドラフト2位でダイエー(現・ソフトバンク)に進み、現役引退後、北海道・東北担当のスカウトに転じて、今年で25年を超える。
「よく辛抱したなぁと思いますよ。プロに入るのに8年かかっているんですから。高校の時から見ていますが、社会人に入った当初は力で勝負したがってね……それで随分と痛い目にあったから、自分で考えて、コツコツ努力して、テイクバックをコンパクトにして、あのコントロールを身につけたんですよ」
そこまでの投手が、なぜプロに入るまで8年もの時間を要したのか……。
「そこまで褒めるなら、獲ればいいじゃないかって。たしかにそうなんです。でもね、いいピッチャーだから当然、上の人に試合を見てもらうじゃないですか。コントロールもいいし、変化球もいいし、試合もつくれる。ただ、ストレートのアベレージが140キロ前後。『このスピードで大丈夫?』ってなるわけですよ。『うわっ、すごいな!』ってびっくりするようなインパクトがなかった。仕方ないんです。当時のJR東日本東北には、公式戦のマウンドを任せられるような投手がほかにいなくて、試合のたびに攝津なんです。もちろん連投は当たり前。私もピッチャーだったからわかるんですが、先を考えてある程度セーブしたピッチングをせざるを得ない。そういう事情を抱えていたんですね、攝津は……」
それでもアベレージ140キロ前後で9イニングを投げきれるなら、1イニング限定で使ったら150キロ近いボールを投げられるんじゃないか。そんな”仮説”を抱きながら、ずっと攝津を追い続けた作山スカウトの耳に、そんな仮説を裏付けるような事実が届いた。
「国際試合であるワールドカップで投げたら147キロを出したって……やっぱりなって思いましたよ。先のことを考えずに、1試合勝負ってことになれば、140キロ後半ぐらいは出せる。それを日本では見せられなかったんですね。それから私は『間隔を空けた先発や、短いイニングだったら、間違いなくアベレージは上がります』って、スカウト会議でアピールすることができました」
秋田で生まれ育って、杜の都・仙台で腕を磨いた攝津。東北人の身上は、辛抱と粘り強さ、コツコツ重ねる不断の努力だ。そんなDNAをすべて継承してきたように、攝津はプロのマウンドでも粘り強く、チームのために力を尽くしてきた。
2009年の新人王を皮切りに、最優秀中継ぎ投手を2回(2009年、2010年)。さらに先発に転向した2011年から5年連続2ケタ勝利。2012年には17勝5敗、防御率1.91で最多勝と沢村賞を獲得。まさに”絶対的エース”としてチームを支えてきた。
攝津が社会人野球でチームを背負いながら淡々と投げる姿を見ながら、「きっと社会人野球でいい指導者になるんだろうな……」と思ったことがある。その話を作山スカウトにすると、こんな答えが返ってきた。
「試行錯誤しながら辛抱して、努力して、苦労して、プロに入って、ホークスのエースになってくれました。エースになっても裏表のない練習態度。そういうことは、球界全体が知っていますからね。いずれはいい指導者になってくれると思いますよ」
大谷翔平とはちょっと違った輝きの”東北の太陽”が、いったん姿を隠した。いずれ再び、その姿を現すとしたら……胸に秘めた野球への思い。後進に寄せる思いは、我々の想像をはるかに超えるものだろう。そんな日が早く訪れることを願っている。