「来年の東京オリンピックで、あの超高速タックルが見られないのか……」 2019年1月8日、吉田沙保里引退の報を聞いた誰もが、そう残念がったことだろう。 東京オリンピック招致活動中、日本のオリンピックの”…

「来年の東京オリンピックで、あの超高速タックルが見られないのか……」

 2019年1月8日、吉田沙保里引退の報を聞いた誰もが、そう残念がったことだろう。

 東京オリンピック招致活動中、日本のオリンピックの”顔”でもあった吉田は、「止められても東京オリンピックには出場します」と公約していたが、その夢は叶わなかった。



ロンドン五輪でオリンピック3連覇を達成したときの吉田沙保里

 全日本王者だった父・栄勝が自宅に敷いたマットの上でハイハイをし始めた時から慣れ親しみ、3歳になるころには早くも練習を始めた吉田のレスリング人生。「タックルを制する者が世界を制する」を信念とする父に鍛え抜かれた吉田は、すぐさま全国少年少女レスリング大会、全国中学生選手権を圧倒的な強さで制した。

 その後、世界カデット選手権2連覇、世界ジュニア選手権2連覇と、世界を相手にしてもその強さは変わらず。それらの実績を引っ提げ、吉田は2001年に中京女子大(現・至学館大)に入学する。するとその年の9月、あたかも吉田の成長を待っていたかのように、女子スタイルのオリンピック種目化が決定した。

 アテネオリンピックを2年後に控えた2002年、吉田はクイーンズカップで最大のライバル、山本聖子を倒して日本代表となると、女子レスリングが初めて採用されたアジア大会でも全4試合フォール勝ちで金メダルを獲得。さらに、1カ月後に行なわれた世界選手権でも初出場・初優勝を果たした。

 2003年も世界選手権で連覇を果たし、飛ぶ鳥を落とす勢いで挑んだ2004年のアテネオリンピックで、ついに金メダルを獲得。その後、北京大会、ロンドン大会も制し、オリンピック3連覇を成し遂げた。

 2016年のリオデジャネイロオリンピックでは惜しくも銀メダルに終わったが、その間に世界選手権は前人未到の13連覇を達成。2001年の全日本選手権準決勝で山本聖子に敗れたのを最後に、同大会3位決定戦からリオの決勝で敗れるまで「個人戦206連勝」を記録し、さらには国民栄養賞も受賞するなど、日本レスリング界の歴史を築き上げた。

 吉田沙保里のイメージを聞くと、「一度も負けることなく、連勝街道を驀進した霊長類最強女子」と思われている方も多いだろう。だが、国別対抗団体戦のワールドカップで2度、黒星を喫している。それゆえ”個人戦”との限定だが、吉田は連勝記録を誇ることなく、「負けを知って、また強くなった」と自身を振り返っている。

「レスリング協会やマスコミの方々が、『敗れたのはいずれも”団体戦”であり、”個人戦”では連勝が続いているよ』と言ってくれます。それはありがたいことですし、同時に『そういう記録があるなら、さらに伸ばせるようにがんばろう』と戦ってきました。ですが、吉田沙保里は勝ち続けることで成長したのではなく、負けて強くなってきました」

 2008年、オリンピックイヤーの1月に行なわれたワールドカップのアメリカ戦。吉田はまったくノーマークだったマルシー・バンデュセンにタックル返しを食らって敗戦を喫す。連勝記録が119で途切れるとともに、13歳から外国人選手と戦って一度も負けたことがないという記録も途絶えてしまった。

 マットから降りると泣きじゃくり、伊調千春に抱えられて吉田は控室に消えた。だが、1時間ほどすると、涙で真っ赤に腫らした顔でマスコミの前に姿を現し、消えそうな声で話した。

「お待たせしてすみません。(微妙な判定だったが)自分が弱いから負けました」

 何もコメントを残さず、そのまま宿舎へ引き上げても、文句を言う者はいなかっただろう。それでも、吉田は責任を果たした。私はこのときの吉田の誠実さとともに、後に彼女自身から教えてもらった国際電話での父・栄勝の言葉も忘れられない。

「悔しいだろう。だったら、その悔しさをそのまま持ってこい。そして、一生懸命、練習せい。今日悔しくても、明日忘れる馬鹿もいる。それをやっていたら、いつまでも勝てないよ」

 吉田は最大の武器であるタックルを父と一緒になって修正した。相手との間合い、足の位置、上体の傾け方、構える両手の高さ、入るタイミング、重心移動、両手の引き付け方、倒す方向……。まるで精密時計を分解・掃除するように、ひとつひとつ、数センチ単位で。その結果、吉田は北京で見事にオリンピック2連覇を達成した。

 吉田は再び連勝記録を積み重ねていった。だが、2012年、今度はロンドンオリンピックを2カ月後に控えた5月、またしてもワールドカップで敗戦を喫する。相手はロシアのワレリア・ジョロボワ。無名とも言える選手に、同じく屈辱のタックル返しでの黒星だった。

 私は大会直後に吉田に取材できる約束を事前に交わしていた。だが、連勝ストップのショックで取材は無理だろうと思い、当時の栄和人監督に延期の相談をした。すると、吉田から直接電話が入った。

「ご心配おかけしてすみません。大丈夫です。約束は守りますから」

 取材は無事に行なわれ、「自分は多くの人たちに支えられている。ここで足踏みしているわけにはいかない」と、強い口調で心境を語ってくれた。

 そんな吉田とのあれこれを思い出すなか、彼女の引退会見が都内のホテルで行なわれた。スポーツ界の宝の引退とあって、会場には200名を超すマスコミが開始2時間前から殺到した。吉田がこれまで積み上げてきた功績の大きさを物語っていると言えるだろう。

 4年に一度、オリンピックのときしか注目されないレスリングを、吉田はメジャー競技に引き上げた。2013年にレスリングがオリンピックから除外される危機に立たされたときも、世界選手権を目前にしながらIOC(国際オリンピック委員会で)でロビー活動を展開し、その奮闘のおかげでレスリングは存続された。さらに、東京オリンピック招致活動でも、吉田は欠かせぬキーパーソンだった。

 今後は日本代表チームや母校・至学館大でコーチを続け、「後輩たちを東京オリンピックで勝たせたい」と語る。吉田が”伝家の宝刀”超高速タックルで世界を制したように、絶対的な武器を持った選手を育ててくれることを期待したい。