競輪に携わって35年、今回は立川競輪場です。
昭和60年(1985年)春。特別競輪(現在のG1)はまだ年間に4開催しかなく(この年、全日本選抜とグランプリが始まります)、その最高峰が日本選手権でした。3月後半に行われていたこの大会は1月下旬とその翌週2月上旬に全国8ヶ所で行われるトライアルレースの結果で出場選手を決めていました。約2ヶ月の間、タイトルを意識することもこの大会の醍醐味であり、この予選があることで最高峰たる重みが増していたと思います。

この年のダービーは私にとっても特別でした。それまで長く優勝インタビューを担当してきた先輩から、その大役を引き継ぐことになったからです。それまでは検車場などで選手と一緒にテレビモニターを観ることで、あちこちから聞こえてくるそれぞれのレース解説で色々と勉強していたようなものでした。そんな期間が2年以上あったのに、この時からバンク際にて1人でレースを観て、即座に優勝選手にマイクを向けなければいけなくなりました。しかも当時は特別競輪の決勝くらいしか行われていなかった生中継。それもVTRのように「失敗!やり直しましょう」はできません。全国の競輪ファンが見つめる中で、みなさんに代わってお話しを伺う大役です。緊張と興奮と、何が何やら分からない中で迎えた決勝戦。
それでも、幸いだったのは2年の間に特別競輪の決勝の緊張感を常に肌で感じ、選手の心境を理解しようとしてきたこと。スタートラインに並ぶ9選手の顔を見るうちに自分の緊張よりも1人、1人のこれまでの苦労や頑張り、練習に打ち込む姿、悔しがる顔、夢を語っていた表情などを思い起こせました。
その時、スターティングブロックについた9人には9つのドラマがあり、その1人、1人の背景を思うと、勝利を手にしたならどう喜ぶのかが浮かんできます。そして、静かに9人はスターティングブロックを離れていきました。


優勝したのは地元・東京の清嶋彰一さん(東京40期・引退)でした。バレーボールの選手として活躍した高校時代を経て、日本競輪学校に適性制度で入学。恵まれた体格で迫力のある人でした。とにかく声が大きいし、押し出しがいい。
その清嶋さんを迎えるためにホームストレッチに歩み出すと、それまで支配していた緊張感がホッと、したムードに変わっていました。そこに戻ってくる優勝選手、再び満場のファンの目が一点に集まります。こうして優勝インタビューは始まるのです。金網に連なるファンの顔、顔、顔、そして誇らしげな優勝選手。
いよいよ「優勝、清嶋彰一選手です、おめでとうございます!」と、声を張り上げた私を一顧(いっこ)だにせず清嶋さんは私の持つマイクをガシッと、掴むと御自身の方に引き寄せ、持っていってしまいました。まさかの展開!もう初めてだとか、緊張しているだとか言っている場合ではありませんでした。私はアナウンサー、マイクを奪われる訳にはいきません!滔々(とうとう)と喋っていらっしゃった清嶋さんの言葉が途切れる瞬間を狙ってマイクを奪い返す、力にはスピードで対抗です(笑)。でも、この今なら笑えるシーンはどこにもありませんでした。なぜなら、この頃は車券の発売締め切りが時間を過ぎてもファンの列が長くて窓を閉められないことが多々あったのです。この時もスタート時間がずれ込んでテレビ中継の放送時間が終わってしまい、インタビューは場内のみなさんだけのイベントになっていたからです。全国のみなさんに優勝者の声が届かなかったことは非常に残念でしたが、私の緊張や清嶋さんの舌好調は変わりません。この優勝を皮切りに清嶋さんは関東を代表する先行選手として全国に名を馳せます。
力で押し切る滝澤正光さん(千葉43期・引退)に対して、正攻法からノラリクラリと、後方の選手を翻弄(ほんろう)するハイテク・ローリング先行というように銘打たれた先行技術でタイトルを重ねた選手でした。ただ、危険が伴う戦法でもあるということで、後年、イエローラインの制定の契機の一つにもなりました。


声の大きさ、押しの強さ(私からマイク奪っちゃうくらいですから)でも特徴的で個性的な選手でした。
思い出の立川バンク、今年は誰のどんなインタビューが展開されるのでしょうか?あの満場の熱い声援、ファンのみなさんが戻ってきて下さるように競輪界は努めていかなくてはいけませんね。

【略歴】


設楽淳子(したらじゅん子)イベント・映像プロデューサー

東京都出身

フリーランスのアナウンサーとして競輪に関わり始めて35年
世界選手権の取材も含めて、
競輪界のあらゆるシーンを見続けて来た
自称「競輪界のお局様」
好きなタイプは「一気の捲り」
でも、職人技の「追い込み」にもしびれる浮気者である
要は競輪とケイリンをキーワードにアンテナ全開!