“育成の星”として数々の記録を打ち立てた山口鉄也(巨人)が、13年のプロ野球生活に別れを告げ…
“育成の星”として数々の記録を打ち立てた山口鉄也(巨人)が、13年のプロ野球生活に別れを告げた。2006年に育成ドラフト第1期生としてプロ野球生活をスタート。2007年に支配下登録されると、一躍、巨人リリーフ陣の柱としてチームを支えた。2008年から9年連続60試合登板のプロ野球記録を樹立。第2、3回WBCでは日本代表の一員として戦うなど、球界を代表する選手へと上り詰め、240万円だった年俸はいつしか3億2000万円にまで達していた。そんな山口が激動の13年間を振り返った。

今シーズン限りで現役を引退した巨人・山口鉄也
―― 現役を引退されて数カ月経ちましたが、寂しさみたいなものはありますか。
「まだ実感がわかないというか、例年どおりのオフみたいな感じで過ごしています。時々、『もう野球をやらなくていいんだ』と思ったりもしますが、自分のなかではやり切ったという気持ちが大きかったので、今のところ寂しいとか、そういう感情はありません。でも年が明けて、キャンプが始まり、プロ野球が開幕すると寂しさが出てくるかもしれないですね」
―― 高校を卒業してアメリカでプレーされましたが、きっかけは何だったのですか。
「高校3年の最後の夏の大会が終わり、自分のなかで『もう野球はいいかな』と思ったんです。もちろんプロ野球選手になりたいという夢はあったのですが、声のかかるような選手でもなかったですし、大学に入ってまた一からやるのも面倒だなと思って……本気で野球をやめようと思っていたのですが、どうしてもやりたくなって。
それで高校の先輩に相談したら、アメリカでテストを受けてみないかと。別にアメリカでやりたいとも思っていませんでしたし、受かるとも思っていませんでした。ただアメリカに行ったことがなかったので、旅行感覚で受けに行ったんです。そうしたら獲ってくれる球団があって。一番下のリーグというのはわかっていたんですけど、メジャー傘下の一応プロですから。とにかくここで頑張ってみようと思って、決意しました」
―― アメリカで得たものは何でしたか。
「ハングリー精神ですかね。高校までは練習が嫌いで、あまり一生懸命やった記憶がありません。それでもレギュラーとして試合に出られましたし、野球の壁にぶち当たったことはなかった。でもアメリカでは、自分より速い球を投げる選手はいくらでもいますし、バッターもすごい打球を打つ選手ばかり。はっきり言って、自分よりうまい選手ばかり。そういう彼らが、練習が終わったあとにウエイトや個人練習をやっているんです。その姿を見て、彼らは生活や人生をかけて野球をやっているんだなと。自分も変わらなきゃと思って……」
―― アメリカで4年間プレーし、その後、帰国して横浜(現・DeNA)、楽天の入団テストを受けるも不合格。しかし、最後に受けた巨人に育成選手として入団することが決まりました。帰国を決めた理由、入団テストを受けた経緯を教えてください。
「アメリカではマイナーでも最下部のリーグで、結局4年間、上のカテゴリーには行けませんでした。一緒にやっていた選手がメジャーに上がったりするなかで、自分はいつまで経っても上がれない。気がつけば、ルーキーリーグのなかでベテランになっていた(笑)。さすがに、このままここでやっても芽は出ないなと思って。
そこで、また高校の先輩に相談したら『日本のプロ野球のテストを受けてみないか』と。せっかくアメリカで4年間やってきたわけですし、最後にこんなチャンスをもらえるならやってみようと。でも、横浜も楽天もダメで……。自分のなかではどこを受けても無理だろうと思っていたのですが、『最後は巨人だ』と。『球団によってほしい選手も違うし、見方も違うから受けるだけ受けてみろ』ということで巨人のテストを受けたら育成選手として契約してくれると……」
―― 最初、育成選手として契約すると言われた時はどんな心境でしたか。
「育成制度ができた年だったので、それがどんなものかまったく想像できませんでした。プロ野球選手になれる、巨人のユニフォームを着られるというだけで嬉しかったですね。だから支配下選手になりたいとか、一軍で活躍したいとか、具体的な目標は何もありませんでした。入団してからですね、次々と目標が出てきたのは」
―― 巨人といえば球界でも屈指の選手層を誇り、一軍の試合に出るのはおろか、育成から支配下になるのも簡単ではないと思います。
「僕なんてテストで獲る必要があったのかなと思っていましたから。とにかく巨人のイメージはスーパースターの集まりで、テレビで見ていた選手が目の前にいるわけですよ。そのなかで支配下になるのは簡単ではないなと。最初から圧倒されていましたね。結局、1年目は支配下になれなかったのですが、その理由を聞くと、支配下になるためには一軍の戦力にならないといけないということだったんです。それを聞いて、『そうだよな』って、妙に納得したんです。育成選手は二軍の試合には出られますので、そこで戦力になっても仕方がない。あくまで一軍で通用するかどうかが大事であって、もっと上を目指さないといけないなと思うようになりました」
―― 2年目に支配下登録されるわけですが、その要因として挙げられることは何だったと思いますか。
「小谷(正勝)コーチからは『左打者が嫌がる投手になりなさい』とずっと言われてきて、そこを目指してきました。それに、僕にとってなにより大きかったのが、1年目のオフに工藤公康さん(現・ソフトバンク監督)の自主トレに参加させてもらったことです。そこで野球に対する姿勢だったり、体のケアの仕方だったり、トレーニング方法だったり、すべて一から教えてもらいました。それ以降、体が強くなりましたし、ボールの力も今までとは比べものにならないほど変わってきました。そこで自信がついたのは間違いないですね」
―― 工藤さんの教えのなかで、最も印象に残っていることは何ですか。
「『すべてをピッチングにつなげろ』ということですね。たとえば、今まではウエイトをやるにしても、ただ重いものをガンガン上げていただけで、どこをどのように鍛えるというのまで考えたことはありませんでした。そうじゃなく、こういう球を投げたいのならどこを鍛えればいいのか。ランニングするにしても、ただ走るのではなく、股関節を意識して走ったり……すべてピッチングにどう生かすのかを考えながらやるようになりました」
―― 2007年の4月29日にプロ初登板を果たしました。その時のことは覚えていますか。
「神宮球場でのヤクルト戦で、最初のバッターはラミちゃん(現DeNA、アレックス・ラミレス監督)でした。神宮はブルペンがファウルグラウンドにあるので、ある程度、雰囲気はつかめていたのですが、名前がアナウンスされた時は、もう頭の中が真っ白で……マウンドで震えていました。なんとかショートゴロに打ち取ることができて、ようやく落ち着けました。あのラミちゃんを抑えたことで自信になりましたけど、打たれていたらどうなっていたのか……」
―― 活躍するたびに”育成の星”という言葉が紙面に躍りました。育成出身選手として使命感のようなものはあったのですか。
「最初は何をするにも”育成”という言葉がついてまわって、面倒だなと思う時期もありましたが、ある育成の選手から『山口さんのようになりたい』と言ってもらった時に、自分が活躍することでほかの選手の励みになるんだと気づかされたんです。もちろん、誰かのためにやっていたというわけではないのですが、少しでも長く頑張ろうと思って投げていました」
―― 2008年からはプロ野球記録となる9年連続60試合登板の金字塔を打ち立てました。
「自分でも本当によく投げたと思います。昔から体も強い方ではなかったですし、高校の時はヒジを痛め、入団した1年目も肩を痛めましたから。先程も言いましたが、1年目のオフに工藤さんの自主トレに参加させてもらってからすべてが変わりました。もし工藤さんとの出会いがなかったら体も強くなっていなかったでしょうし、こんなに長く野球をやれていなかったと思います」
―― とくにリリーフは、体力的にも精神的にもきついポジションだと思います。
「個人的には、気持ちの部分できつかったですね。ブルペンではいつも『打たれたらどうしよう。投げたくない』と思っていました。点が入ったり、ヒット1本でも流れが変わってしまうポジションですので、失敗が許されない。とにかく、相手に流れを渡さないことだけを考えてマウンドに上がっていました」
―― “引退”を意識するようになったのはいつ頃からですか。
「そろそろヤバイかなと思い始めたのは、ここ2、3年ですね。自分の思うような球が投げられなくなってきて、結果もよくなかったですから。ただ、そこまで深くは考えていませんでした。それが決定的になったのは、今年の9月です。ファームで仙台に行った時、試合ではしっかり投げられて抑えたのですが、次の日に肩が上がらなくて、キャッチボールもできない。それも含め今年4回ケガをしたのですが、さすがに体も限界かなと……。体がついてこないと気持ちもついていかないので。それで引退を決意しました」
―― プロ野球選手としてやり残したことはありますか。
「日本代表にも選ばれましたし、日本一も達成し、銀座のパレードまで経験させてもらった。正直、選手としては十分にやり切ったと思っています。あえて言うなら、最後にもう一度だけ優勝したかったなというのはあります。でも、これ以上望むのは贅沢すぎるぐらいいろんな経験をさせてもらったので、心置きなくユニフォームを脱げます」
―― プロ野球生活を振り返って、思い出に残っているシーズンはたくさんあると思いますが、最も印象に残っているものは。
「2012年の日本ハムとの日本シリーズで胴上げ投手になれたことですね。これまでのことが走馬灯のように蘇ってきて……高校時代、アメリカでプレーしたこと、育成選手として投げていたことなど、ホントいろんなことが頭のなかをよぎりました。いま振り返っても、プロで成功するなんて思ってもみなかったですから。こんな場面で投げられることが信じられなくて。野球を続けてきてよかったなと思いましたね」
―― 最後に、山口さんにとって13年間のプロ野球生活を漢字一文字で表すと?
「13年間……漢字一文字……うーん、難しいですね。あえて言うなら”濃”ですかね。プロになれるかどうかもわからなかった選手が巨人に拾ってもらって、そこでいろんな人に出会えて、原(辰徳)監督も辛抱強く使ってくれた。すべてが奇跡的なことばかりで、巨人に入っていなかったら建築関係の仕事をしている友だちのところにお世話になっていたと思います。現役をやっている時はつらいことの方が多かったのですが、いざ辞めて振り返ると楽しいことしか思い浮かびません。本当に中身の濃い、最高のプロ野球人生でした」