17日に行われた全日本大学選手権(インカレ)準々決勝・順大戦。前半に先制するも後半に2失点を喫し、早大の今季の戦いに幕が下りた直後、チームマネジャーの蓮川雄大(スポ4=FC東京U18)に直撃した。そこで蓮川は、「プロになるために、早大ア式…

 17日に行われた全日本大学選手権(インカレ)準々決勝・順大戦。前半に先制するも後半に2失点を喫し、早大の今季の戦いに幕が下りた直後、チームマネジャーの蓮川雄大(スポ4=FC東京U18)に直撃した。そこで蓮川は、「プロになるために、早大ア式蹴球部で5年目をプレーヤーとして迎える」意思を表明した。言うまでもないが、4年間と定められた大学生活で、5年間プレーすることは異例のことだ。しかし選手としてはケガに苦しみ続け、不完全燃焼に終わった4年間。このまま引退するわけにはいかない——。今季チームマネジャーの役職を預かり、早大を3年ぶりの関東大学リーグ戦優勝に導きながらも、なお消えることのなかったプレーヤーとしての誇りとプロの舞台への憧憬(しょうけい)が、蓮川を『5年目のシーズン』へと駆り立てた。


早大で5年目のシーズンに挑むことを決断した蓮川
(6月23日、練習試合・東農大戦で)

 FC東京U18時代は、『アメ車』と形容されるほどの推進力と、爆発的なスプリントを武器に得点を量産。攻撃陣の柱として圧巻の存在感を放った。高校3年時の2014年には二種登録を勝ち取り、トップチームに帯同。公式戦のピッチに立つことはなかったものの、自身の武器はJリーグでも通用するという手応えを得た。複数の選択肢が用意されていた中、蓮川が大学進学を決断した理由の一つに、同じFC東京U18出身の日本代表FW武藤嘉紀(ニューカッスル・ユナイテッドFC/イングランド)の存在がある。2014年、当時慶大の4年生だった武藤は現役大学生ながらFC東京とプロ契約を締結。シーズン13得点を記録する活躍でJリーグを席巻した。その後海外移籍を果たし、日本代表として世界を相手に戦い続けている。「同じチームに、大学を経由してあれだけの選手になった先輩がいた。武藤くんと同じ道を辿っていくという理想があった」。大学サッカーでさらなる成長を遂げてJの舞台に挑戦しよう——。そう意気込んで早大に進学した蓮川に待ち受けていたのは、度重なる故障とリハビリの日々だった。

 悲劇の始まりは1年時の10月。左膝の前十字靭帯を断裂し、長期に渡る戦線離脱を強いられる。2年時の夏にようやく復帰すると、早慶定期戦でベンチ入りを果たし、後期リーグ戦でも出場機会をつかみ始める。しかし、本領発揮への期待が高まり始めたリーグ戦終了後の12月、今度は右膝の前十字靭帯を断裂し、再び戦線離脱。3年時夏に復帰するも、程なくして靭帯へ移植した右足の再生腱が断裂するという前代未聞のケガを負ってしまう。その後も左膝の半月板損傷、さらには二度の右膝前十字靭帯断裂と、復帰と離脱を繰り返す日々が続く。一度負っただけでも選手生命が終わりかねないケガに何度も苦しめられ、メスを入れた回数も一度や二度ではない。今年6月に6回目の長期離脱を強いられた際には、プレーヤーとしての夢を断念することも頭をよぎったという。


昨年末には新体制初戦で戦線復帰も、2戦目で受傷し復活はかなわず
(17年12月3日、天皇杯東京都予備予選・東京スポーツ・レクリエーション専門学校戦で)

 しかし度重なるケガを経るうちに、蓮川の考え方に変化が生まれ始めた。「1年の頃はサッカーだけやっていればいいという考えだった。でも、リーグ戦に関わるようになってからは同期やチームの中で存在感を発揮しなければと、ケガしてからは自分の経験を還元しなければと思うようになり、他人に関わることが増えた。それが一番の変化だと思う」。ピッチ上の11人のうちの1人としてだけでなく、早大ア式蹴球部の一員として存在感を発揮し、チームの助けにならないといけない。そのことを自覚した蓮川は、徐々にチームメートに歩み寄っていき、関わりを深めるようになった。

 最高学年となった蓮川は、チームマネジャーのポストを任されることとなった。「岡田(FW岡田優希主将、スポ4=FC町田ゼルビア内定)から、『雄大にはサッカーの面で選手たちにアプローチしていって欲しい』と言われ、チームマネジャーという役職を新設して就任した」。時を同じくして、外池大亮監督(平9社卒=東京・早実)が就任。伝統と歴史ある早大ア式蹴球部に新しい風を吹き込んだ『変革者』と蓮川の邂逅(かいこう)は、早大を確固たる軸と柔軟性を持ち合わせた集団へと変貌させた。「監督には監督のしっかりとした考えがある。その上で選手として思ったことは何でも言うようにしているし、外池さんはまずそれを聞いてくれる」。選手の話を尊重し耳を傾ける指揮官と共に、仕事に取り組んでいった。
 チームマネジャーの蓮川は『戦略』を司り、早大の公式戦での戦い方を分析し、抽出した課題の修正を日々の練習に落とし込むことで、自分たちのベースとなる戦い方を形成。一方グラウンドマネジャーのMF相馬勇紀(スポ4=名古屋グランパス内定)を中心とした分析班は『戦術』を担い、対戦校のスカウティングに尽力した。そして『戦略』と『戦術』を融合し、最適解を生み出して試合に臨む。試合ごとにこのプロセスを踏んだ早大は、昇格初年度ながら圧巻の強さで勝利を重ねる。最終的に首位独走態勢を崩さぬままリーグ優勝を果たし、早大史上最多勝ち点を積み上げるまでに至った。


リーグ優勝が決定し、岡田主将やスタッフ陣とともに喜ぶ蓮川
(11月10日、リーグ戦・東京国際大戦で)

 選手兼スタッフとしてプレーヤーに寄り添いつつ、外池監督の参謀として奮闘した蓮川の貢献度は計り知れないと言っていいだろう。最終ラインから早大の躍進を支えた次期主将のDF大桃海斗(スポ3=新潟・帝京長岡)も、「選手と監督のつなぎ役を上手くやってくれた雄大くんの力はすごくあったと思う」と公言してはばからない。しかし蓮川は「本来はピッチで勝利に貢献していなければいけない立場」であると自認しており、そこに満足感はないという。多方面からの大きな期待を背負ってア式蹴球部に入部した蓮川にとって、現在の立ち位置は思い描いていたものから程遠いものであることも厳然たる事実なのだ。
 プレーヤーとして貢献できていない自覚と、諦められないプロの夢。割り切れない思いが胸の奥でくすぶっていた。だからこそ蓮川は、5年目を迎える道を選んだ。「プロになるという目標がブレたことはなかったし、絶対に諦めたくなかった。しっかりリハビリして強い思いを持ってやり続ければ、プロになるという道もある。それを自分の姿を通して知ってもらえたらなと」。ケガに苦しみ続けた自分がプロになることで、同じ境遇に身を置く選手たちの希望になりたい。そういったところにも意味を見出していると、蓮川は言う。

 インカレでベスト8に終わり、現チームの解散が決まった後のインタビューで、蓮川は同期に対して感謝の言葉を口にした。「自分がケガした時に支えてくれたし、同期の存在があったからこそ自分も復帰を諦めずにやって来られた。本当に感謝しかない」。同期含め復帰を待ち望んでいた周囲の人々の存在。それこそが、幾度となくケガに苦しみ続けた蓮川のモチベーションとなり、立ち上がらせる原動力となっていた。
 選手生命が絶たれかねない重傷を何度も負いながらサッカーと真摯に向き合い、チームマネジャーとしての成果をリーグ優勝という最高の結果で示した蓮川。そしてこの度、何度転んでも立ち上がる不屈の精神で、プレーヤーとして早大で引き続きシーズンを迎えることを決意した。胸に抱き続けてきた夢、支えてくれた人たちへの感謝——。それら全てを結実させるべく、蓮川雄大は覚悟の『5年目』へと挑む。

(記事 森迫雄介、写真 守屋郁宏)