古村徹のDeNA再入団までの道のり(前編)「こむらがえり」と人は言う。 2014年に戦力外通告を受けた古村徹が、横浜…
古村徹のDeNA再入団までの道のり(前編)
「こむらがえり」と人は言う。
2014年に戦力外通告を受けた古村徹が、横浜DeNAベイスターズに再入団を果たした。前代未聞のNPB返り咲き。とてつもないことである。しかし、どれだけの人が、彼がベイスターズにいたことを覚えているのだろうか。
2011年のドラフトでDeNAに入団した選手たち。古村は左から3番目
photo by Sankei Visual
高校時代は神奈川の県立茅ヶ崎西浜高校のエースとして活躍した。しかし県立の無名校だったこともあって、2011年のドラフト8位でベイスターズに指名された際には「地元枠」とも揶揄された。
わずか3年間のプロ生活はケガとの闘いが続いてまともに投げられず、公式戦の記録はイースタンリーグで投げた1イニングのみ。一時は引退して打撃投手に転身したが、1年後には現役復帰を決意して独立リーグに挑戦。四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツ、BCリーグの富山GRNサンダーバーズでの3年間で、130キロ台だったストレートは150キロを記録するようになり、武器となる変化球も身につけた。
そしてこの秋、入団テストを経てNPBへの復帰が決まった。周囲から見れば「波乱万丈」「紆余曲折」の野球人生だろうが、古村の認識は違う。
「確かに大きなアップダウンがあって、『余計な回り道をしたな』とよく言われるんですが、振り返ってみると全部が一本の人生でつながっているなと思えるんです。戦力外になってからの数年で出会った人たちや経験など、すべてが僕にとっては必要なことでしたから」
「無名高校出身」「肩のケガで投げられない」「プロで使い物にならなかった独立リーガー」……。これまで古村はさまざまなレッテル貼られてきた。筆者も、厳しい状況にいた彼に激励の言葉をかけ続けてはいたが、応援しているつもりでも「これぐらいやれたら十分だろう」と勝手に限界を決めつけていたような気がする。しかし古村はそんなつまらない枠組みや、「この程度だろう」という諦め、逃げ出したくなる現実をも受け止め、ただひとつ己の中に確固としてある「自分はできる」という信念を貫き、壁を破ってみせた。
彼を初めて見たのは17歳の夏だった。茅ヶ崎西浜高校は筆者の母校でもある。湘南の海沿いにある競争とは無縁の実にのんびりした高校の野球部は、3回戦まで行けば大健闘と讃えられる、私立強豪校からすれば本来”眼中にない”存在。そんな野球部において、2年生エースの古村は異質だった。しなやかなフォームから投げるスライダーを武器に、同校を創部以来最高となる5回戦まで導くと、一躍その名は県下に広まった。

茅ヶ崎西浜高校時代はエースとして活躍
3年生になって迎えた2011年の夏、横須賀スタジアムで行なわれた神奈川県大会の3回戦では”打者・古村”が離れ業をやってのける。1点ビハインドの9回裏2アウト満塁の土壇場で、大会史上初となる逆転サヨナラ満塁ホームランを放つ。打ち取られたら高校野球が終わるギリギリの場面からの大逆転劇に「なんて奴だ」と戦慄したことを覚えている。
「入学時から素質はずば抜けていましたが、我が道をいくというか、自分の決めたルール、ポリシーを貫こうとする選手でした。だから、強豪校に入っていたら続かなかったかもしれません。まぁ、手を焼きましたけどね(笑)。ただ、負けん気だけは強くて、練習だけはよくする子でしたよ」
古村の恩師で、当時の茅ヶ崎西浜高校を率いていた渡辺晃監督は、高校時代の古村をそう回顧する。
中学3年生の時、私立の強豪である桐蔭学園高校からの誘いもあったが、野球を辞めるつもりで家から近い茅ヶ崎西浜高校に進んだ。爪楊枝みたいに細い眉で、高校では典型的な”お山の大将”。一度は離れかけた野球ではあったが、「やる」と決心してからは、一度もないがしろにしなかった。
3年生の夏の大会前には左肩を故障するも、「育成でもいいから行きたい」とプロにこだわった。「県立と私立の強豪では練習が違う。3年間で体を作ってから、その先で勝負」という周囲の言葉にも、古村の「やれる」という自信は揺らがなかった。
しかし、プロ野球選手になった古村が、横浜スタジアムで投げることは一度もなかった。横須賀の練習場ではいつも別メニュー。コーチに現状を聞いても、「ケガがよくならないことには……」という苦しい返答を聞くばかりだった。
育成契約となった2年目にはイースタンリーグの最終戦で公式戦に初登板を果たしたが、3年目の2014年シーズンは再び登板がなく戦力外。その年は、北方悠誠、伊藤拓郎、佐村トラヴィス幹久、冨田康祐(育成選手として入団)も宣告を受け、ドラフト同期入団の全投手がチームを去った。
2012年に親会社が移ったことで、チームの適正人数の認識が変わったこともあるだろう。高田繁GMが「うちではチャンスがなかったが、外に出てチャンスを掴んでほしい」と断腸の思いを語り、他の選手たちは現役続行を希望した。しかし古村にだけは、「実績のない選手を他球団が獲る可能性は少ないだろう」と、打撃投手への転身が打診されていた。
「(高田GMの)『選手として使えない』という言葉は、この4年間ずっと頭に残っていました。その言葉を言われた時も『オレはできるんだ!』と返したかったですけど、その根拠となる材料がなくて。でも、打撃投手になってからも『また選手を目指したい』というモヤモヤは消えなかったんです。
その頃から同期入団の高城(俊人)や桑原(将志)が一軍で活躍しはじめていました。一緒に食事に行くと、目を輝かせたファンや小さい子どもたちが『握手してください』と集まってくる。でも、僕のことは誰も知らない。『サインください』って言われて、『ごめんね。僕は選手じゃないんだ』と卑屈になっている自分がすごく嫌でした。打撃投手も十分に胸を張れる仕事だということは頭では理解していても、『選手でやれる』という思いを捨てられなかったんでしょうね」
2013年から2年間、二軍投手コーチとして古村を指導していた木塚敦志(現一軍投手コーチ)は、打撃投手となった古村の心に燻る炎に気づいていた。木塚は中日ドラゴンズで打撃投手を務める西清孝を古村に紹介する。1993年に戦力外通告を受け、ベイスターズのテストを受けて”打撃投手兼任”として入団。インコースを果敢に攻める強気の投球で1996年には中継ぎとして一軍の22試合に登板。1998年のベイスターズ優勝にも貢献するなど、自分と似た境遇からNPBで結果を残した西に、古村は現役復帰へのアドバイスを受け、その思いを強くしていく。
2015年は、試合後に打撃練習を行なう同郷の倉本寿彦の相手を連日務めるなど、打撃投手としての役割を全うし、その他の裏方の仕事もよくこなした。人柄も含めてチームから高評価を得ていた古村は、同年の秋に「来年からフロントに入らないか」と球団からオファーを受けたが、消しきれなかった自分の思いを果たすために決断する。
「現役に復帰します。肩も治ったし、3年間、25歳までに必ずNPBに戻ります」
北方や伊藤らが参加した2015年のトライアウトで、ベイスターズのスタッフとして手伝いをしていた古村からそんな言葉を聞いた時は俄かには信じられなかった。一度戦力外になった選手が、独立リーグを経由してNPBに戻る事例もまったくないわけではないが、可能性は限りなく低い。しかし大事なことは、「野球選手としてやり切った」と思えること。「ケガさえなければ」で終わってしまった野球選手としてのケリをつけるため、完全燃焼してほしい。当時の筆者の願いはささやかなものでしかなかった。
2016年、愛媛マンダリンパイレーツに入団を決めるまでも、多くの関係者の後押しがあった。1年目は中継ぎとして26試合に登板して防御率0.80の好結果を残し、チームは四国アイランドリーグを制する。BCリーグの優勝チームと「独立リーグ日本一」の座を争うグランドチャンピオンシップに進み、そこで再会したのが、2014年に群馬ダイヤモンドペガサスに入団した伊藤だった。
共に2勝ずつで迎えた最終戦は群馬が勝利し、初のグラウンドチャンピオンシップ王者に輝いた。その年に8勝を挙げていた伊藤は、第4戦の勝利投手となりMVPを獲得。古村は激戦を終えた後、伊藤と、シーズン途中に愛媛マンダリンパイレーツに加わった北方との3人で、同年に引退するベイスターズの三浦大輔のTシャツを着て記念写真を撮った。
「1年間、投手としてやり抜いて初めて優勝を経験できました。めちゃくちゃうれしかったですし、その後のグラチャンで負けて悔しさも味わえた。まだまだ『やれる』という手応えもありますし、現状に満足せずに精進するだけです」
独立リーグでの1年目をそう振り返った古村からは、肩の痛みを気にせずに投げられる喜びが感じられた。シーズンが終わった直後からは、四国アイランドリーグと人材交流を行なっていた台湾の社会人チーム・崇越(トプコ)ファルコンズに派遣され、これまでの投げられなかった鬱憤を晴らすように投げ続けた。
翌2017年の1月には、地元・茅ヶ崎市の主催で行なわれた同市出身である倉本寿彦のトークショーに、古村がサプライズゲストとして登場した。
「僕は絶対にNPBに戻ります。グラウンドで対戦しましょう」
打撃練習に付き合ってくれたかつての相棒である古村の呼びかけに、倉本は「待ってるよ」と返し、熱い握手を交わす。
同郷の先輩後輩の誓いに、その場にいた誰もがそうなってほしいと願いつつ、現実はそう簡単にはいかないだろうと予想していた。現実として、その年、古村は最も苦しいシーズンを迎える。
(後編に続く)