12月7日、衝撃のニュースが飛び込んできた。横浜(現・DeNA)、ロッテなどでプレーしたホセ・カスティーヨが故郷の…
12月7日、衝撃のニュースが飛び込んできた。横浜(現・DeNA)、ロッテなどでプレーしたホセ・カスティーヨが故郷のベネズエラで交通事故により死亡した。カスティーヨはメジャーで計5シーズンプレーし、2010年に横浜、2011年にはロッテにも所属した。
Sportivaでは、昨年の11月に当時イタリアでプレーしていたカスティーヨを直撃。日本でプレーした時の思い出や、これからについて熱く語ってくれた。そして会話のなかでカスティーヨが口にしたのは”村田修一”の名前だった。その頃、村田は巨人を自由契約となり、所属先が決まっていなかった。かつてのチームメイトの現状を聞き、遠くはなれた地からエールを送っていたカスティーヨ。そんな”好漢”の野球への愛に満ちた記事を再録するとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

故郷・ベネズエラで交通事故により亡くなったホセ・カスティーヨ(写真中央)
世界各国のリーグやマイナーリーグに「野球旅」をしていると、思いがけない人物に出くわすときがある。かつてメジャーで活躍したビッグネームや日本でプレーしていた助っ人など、これまで実に多くのプレーヤーと意外な場所で遭遇してきた。
日本でプレーしていた選手は口を揃えて、「日本は素晴らしかった」と言い、その印象の良さからか、片言の日本語で向こうから声をかけてくることが多い。彼らは、野球で稼ぐことができる限り、バットとグローブを片手に世界中を飛び回っている。
“野球不毛の地”と言われていたヨーロッパでも、そうした”ジャーニーマン”はいるもので、ふらっと足を運んだイタリアやオランダでも懐かしい顔に出会った。
イタリア・ノヴァーラ。はるか彼方にアルプスを望むこの町の球場に、200キロほど離れたパルマからやってきたビジターチームのなかに、かつて日本でプレーした”元助っ人”がいた。
「オレは日本でもやっていたんだぜ。えーと、ヨコハマとあとは何だっけ……セ・リーグだと思うんだけど……チームを順番に言ってくれないか」
そう言うので、セ・リーグのチームを順番に挙げてみるも、その選手は首をタテに振らない。それではと、パ・リーグのチームを挙げると、「ロッテ」でようやく頷いた。
ホセ・カスティーヨ――この名前を覚えている人は多いだろう。2010年に元メジャーリーガーとして鳴り物入りで横浜ベイスターズ(現・横浜DeNA)に入団し、打率.273、19本塁打と、まずまずの成績を残した。特にメジャーでも評価の高かった守備は二塁手として持ち味を発揮したが、チームの低迷もあり、1シーズンで解雇となった。
翌2011年はメキシコで開幕を迎えるも、シーズン途中でロッテに入団し4番を務めた。しかし打率.269、5本塁打と振るわず、この年限りで退団。その後は、夏はメキシコ、冬は故郷のベネズエラでプレーを続けていた。
昨シーズン(2016年)もメキシコでプレーしていたが、出場機会に恵まれず、シーズン途中にトレードも経験。結局、メキシカンリーグでは37安打しか放てなかった。それでもメジャーリーガーが多数参加するウインターリーグでは、二塁のレギュラーとして打率.332をマーク。だが、今年の春、どこからもオファーがなかった。
そこで選んだのがイタリアだった。イタリアの野球関係者は「このリーグにはいろんなヤツが流れてくるよ」と言うが、その言葉通り、ほかでプレー先のない選手が多数在籍している。
「どうしてイタリアまで来たのかって? まだまだやれるからさ」
メジャーという野球の頂点を極めた選手が、日本円にして月給数十万円の、しかも球場内にある一室に住み込んでまで野球を続ける理由がわからなかった。しかし、彼の答えは実にシンプルだった。実際、36歳(当時)の今も華麗なグラブさばきは健在。まだまだ現役として十分にプレーできることを見せつけている。
カスティーヨにとってイタリアは、7カ国目のプレー先となる。ちなみに、いま在籍しているパルマは自身20チーム目。これだけ多くのチームでプレーしたならば、半シーズンしかいなかったロッテのチーム名を思い出せなかったのも頷ける。
日本でプレーした経験のある外国人選手のほとんどは、それを良き時代ととらえ、様々な思い出を語ってくれるのだが、カスティーヨにとっての”日本”は、長いキャリアのほんのワンシーンに過ぎない。
「日本の思い出? いろんなところでプレーしてきたこともあって、あまり覚えてないんだよね。そうそう、ムラタっていう選手はどうしてる? 彼のことはよく覚えているよ」
はからずも、元チームメイトで同い年のベテラン・村田修一の名前が飛び出した。今季(2017年)はまだ現役でプレーしていたし、来季も現役を続けるだろうと答えると、嬉しそうにうんうんと頷いた。
カスティーヨのように、プレーできる場所があればどこへでも行くという選手もいれば、これまでの経験を伝えようと、母国に帰ってプレーを続けている者もいる。
オランダ・ロッテルダム。今や欧州一の強豪といっていいキュラソー・ネプチューンズの本拠地、ファミリー・スタディオンは、この国で一番の野球場だ。中央駅から路面電車に乗り10分ほど。いかにもオランダという街並みを離れ、モスクが立ち並ぶムスリム地区を抜けると球場にたどり着く。
グラウンドでプレーする選手や観客のほとんどはカリビアンだ。数カ月前にオランダにやって来たというドミニカの選手と地元の観客の英語での会話を聞きながら試合を眺めていると、突然、日本語のあいさつが聞こえてきた。
声の主は、ルーク・ファンミル。2014年に1シーズンだけ楽天でプレーした投手だ。日本では7試合だけの登板で、0勝1敗という成績に終わったが、日本プロ野球史上最長身となる216センチの上背を生かした最速152キロの速球が印象に残る投手だった。また、オランダ本土出身としては初の日本プロ野球選手としても話題になった。
彼が日本でプレーするきっかけとなったのが、2013年に開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)だ。この大会でオランダは初のベスト4に進出するなど、台風の目となったが、「オランダ強し」を印象づけたのが東京ドームで行なわれたキューバ戦の連勝だった。
ファンミルは2試合ともマウンドに上り、粗削りながら力強いストレートでキューバ打線を圧倒していた。そのときの話をすると、ファンミルは日本語で「ハヤイネ」と笑顔で返してきた。
それにしても、サッカー大国のオランダにあって、どうして彼は野球を選んだのだろう。きっかけは、小学校の体育の授業だった。
「本格的なものではなかったけど、野球のようなゲームをしたんだ」
オランダの体育授業は、人気スポーツだけでなく、様々な種目が行なわれ、ファンミル曰く「柔道もやったことがある」という。
ここで野球と出会ったファンミルは、地元のクラブチームに入ってプレーすることになる。オランダでは”部活”というものがなく、競技をしたい者は、クラブチームに入るのが通例となっている。なかには名門クラブが運営する本格的なアカデミーもあるが、ファンミルは卒業するまで、試合は週末、練習はウィークデーの2日間だけという「普通の高校生」として野球を楽しんでいた。
日本で開催される”甲子園大会”に話を向けると、ファンミルは笑いながらこう言った。
「知ってるよ。日本の高校生は朝から晩まで野球ばかりしているんだろ? 僕たちとは大違いだね。僕が高校生のときは、週に2日ほど放課後にちょっとだけ練習して、それがない日は普通に遊んでいたよ。その分、勉強はしっかりできたかな(笑)。日本では授業中に寝る選手もいると聞いたことがあるけど、それはちょっと問題だね。でも、日本の選手はレベルが高く、日本でプレーするのは楽しかった。また戻りたいね」
高校卒業後、フーフト・クラッセ(オランダ野球のトップリーグ)の強豪・HCAWに入団。そこでプレーしていたところをMLBのミネソタ・ツインズにスカウトされ、20歳でアメリカに渡った。
マイナーに8シーズン在籍し、3Aまで上がったが、メジャーにたどり着くことはなかった。それでもWBCでの好投が認められ、育成選手として楽天と契約し、のちに支配下登録され一軍のマウンドにも上がった。
その後、ツインズと再契約を結んだが、やはりメジャーの壁は厚く、現在はフーフト・クラッセの強豪でクローザーとしてチームを支えると同時に、ナショナルチームの主力として戦っている。
いまだオランダ球界一の高給取り(といっても月に数十万円ほどだが……)として君臨しているファンミル。今後、国際大会で侍ジャパンの前に立ちはだかる可能性は大いにある。