写真は中学時代、ブンデスリーガでプレーする及川瑞基(専修大学)/提供:及川瑞基新たな戦いの場に選んだドイツ・ブンデスリーグ。当初は期待半分、不安半分だったが、いざ渡独するとなると、不安の方が大きくなってきた。そもそも英語も十分に話せない。食…

写真は中学時代、ブンデスリーガでプレーする及川瑞基(専修大学)/提供:及川瑞基

新たな戦いの場に選んだドイツ・ブンデスリーグ。当初は期待半分、不安半分だったが、いざ渡独するとなると、不安の方が大きくなってきた。そもそも英語も十分に話せない。食事は?洗濯は?なんとかなるのか!?よく考えると不安だらけだ。

でも結論から言えば「なんとかなった」。もちろん邱建新さん(現・木下マイスター東京監督)のもとでの共同生活なのだから、厳密な意味では1人立ちとは言えないが、中学生の僕には十分な挑戦だった。

日本とは全く違う環境

現地で所属したのはブンデスリーグの4部。1部は松下浩二さんや水谷隼選手たちが戦い、栄冠を掴んできた世界トップクラスの卓球リーグだ。自分は4部からのスタートだ。この「部」というシステムは厳密で、とてもよくできたシステムだ。1部では観客が700人から800人が毎試合詰めかけ、ド派手に応援し、選手にファンがつく。

だが、例えば僕が最初に滞在した4部では観客は20人もいれば良いほうだ。台を囲むフェンスはペラペラの簡素なもので、専属の審判もいない。審判は自分たちでセルフで行うのだ。そのうえ、4部は選手の年齢層もバラバラ。僕のように若い選手もいれば、一線を退いた老獪なプレーヤーもいる。キャリアが違っていうことは、要するに戦型がバラバラなのだ。とにかくパワーだけで押しまくる選手もいれば、変則な打球を放り込んでくる選手もいる。これまで日本のお手本通りの卓球に慣れてきた自分としては相当苦しんだ。

4部での“修行”の日々

現在1部でプレーするようになってから分かったのだが、実は4部での“修行”は本当にためになる。まず1部の選手たちが強烈に眩しく見える。ドイツでは卓球はサッカーに次ぐ人気スポーツの位置づけだ。だから強くなれば認められる。称賛される。それを「体で覚えさせられる」のだ。慣れない場所で、慣れない選手と慣れない戦い方をして、苦しむ。見上げれば、はるか上のピラミッドの頂上に君臨する1部の選手たち。眩しい。だんだんこう思うようになる。「俺も上がってみたい!」と。

当時、邱さんの元で、ピラミッドの頂点の1部リーグに君臨する人と共同生活を送っていた。丹羽孝希選手だ。青森山田の先輩だった丹羽さんは高3、ブンデスリーグの1部に挑戦中だったのだ。

先輩の丹羽さんは本当に不思議な人だ。朝もギリギリまで寝ているし、寝過ごして朝食を摂らないこともしばしば。でも試合になると一変してスピーディーな立ち回りで大きなヨーロッパ選手を次々と倒していく。試合後にはファンが殺到して丹羽に声を掛ける。単なる青森山田の先輩というより一人のアスリートとして「かっこいい…」と思わずにはいられない。とは言えまずは4部で勝たなければ次は見えてこない。

ドイツでの生活はかなりシンプルだ。レストランでグルメを楽しむ余裕もない。たいてい、「ヌテラ」というチョコレートをパンに塗って食べ、共同生活を送る自宅の裏にあるトニーというイタリア人が作るカルボナーラを死ぬほど食べた覚えがある。

だからドイツでは練習以外の時間にかなり余裕がある。その間、いかに過ごすかは意外と考えものだ。書籍を読み漁るようになったのもこの頃からだ。ドイツに来てから目が向いたのが海外で活躍する日本人アスリートたちの書籍。特に長谷部誠選手の「心を整える」は何度も読み返した。初めての海外修行や、世界の壁。多くのアスリートたちが海を超え、新天地にわたり、壁に直面する。どうやって乗り越えるのか。それとも乗り越えずに交わしていくのか。アスリートたちの思考法は奥が深い。

この約6週間のドイツ滞在で「必ずまたドイツに来たい」と思うようになっていた。そして高校生活へと突入。とはいえ、同じ青森山田、同じ卓球漬けの日々だ。当時ちょっと自信を持っていた。「俺はドイツ帰りで、いろんな選手と戦って強くなったんだ」と。

だけど、そう簡単にいかないのはスポーツの世界だった。

文:及川瑞基