日本で幕を開けたTリーグ。次々と若い選手が台頭しているが、ひときわ光をはなつ若手がいる。及川瑞基だ。及川は6月の関東学生、7月のインカレも制し、10月には国内の大学生最強を決めるシングルスのトーナメント「全日学」で優勝を果たした。今、「学生…

日本で幕を開けたTリーグ。次々と若い選手が台頭しているが、ひときわ光をはなつ若手がいる。及川瑞基だ。及川は6月の関東学生、7月のインカレも制し、10月には国内の大学生最強を決めるシングルスのトーナメント「全日学」で優勝を果たした。今、「学生最強」と言えばこの男だ。及川は現在、Tリーグには所属していない。15歳の頃から今に至るまでドイツのブンデスリーガで修行をしているのだ。今季は順調に勝ち越し、「ポスト森薗政崇」との呼び声も高い。

及川が今後、日本卓球界の台風の目になることは間違いない。ならば知りたい、この男の軌跡を。そう思い、本人に執筆依頼をしたところ、快諾。幼少期からつづってもらった。

「僕、卓球やってみたい」

まだ、その日のことはよく覚えている。うだるような夏の暑い日のことだった。カコン、カコン…。乾いた音がサウナのような室内で心地よく響く。76cmの“その台”は僕の胸ほどの高さもある。汗をにじませながら姉が小さな白球を無心で打ち返す。その様子を見て不思議と、こう思ったのをいまでも覚えている。

「僕もやってみたい」

5歳のことだった。

仙台市で生まれた僕はサッカーや野球が大好きな「スポーツ小僧」だった。卓球に触れたのは2人の3歳と6歳年上の姉がきっかけだ。所属したのは日本代表の張本智和を育てた張本夫妻が監督を務める「仙台ジュニア」だ。初めて卓球場に足を踏み入れると選手たちの熱気が体を包む。練習場にずらりと並ぶ10台の卓球台に圧倒される。奥では「強い人」が本気で打ち合っている。「うわぁ… すごいなぁ…」。思わずこぼれる。

仙台ジュニアに入った僕は週に1回、2時間の練習をこなしていた。福原愛さんのような本気の練習ではなく、あくまで「やりたいときにやる」スタイルだ。今、日本のトップで活躍している選手たちが親に厳しく鍛えられていたのと比べれば雲泥の差だ。

そもそも張本監督に叱られた記憶だってほとんどない。多球練習が楽しみで、ひたすらボールを追いかけた。小さい頃の僕は卓球台についても集中力がなく、周りで一生懸命練習している友達に、ボールを投げて邪魔をして遊んでいた無邪気な少年であった。

初めての試合、結果は惨敗




全日本ホカバ、バンビの部に出場した当時8才の及川。写真:及川瑞基

卓球を初めて半年後、初めての大会を迎えた。宮城県の県大会がその舞台だ。参加人数は6人だったと思う。結果は散々だった。そりゃそうだ。始めて日も浅ければ、ろくに練習もしていない。それでもなぜか号泣していた。野球やサッカーのチームスポーツと違い、卓球では試合の責任は自分だけにのしかかる。そう思うととても惨めな気持ちだった。「勝ちたいなら練習しないと」。監督に優しく諭されると火が灯った。

そこからは練習量が増え、練習場に通うのも週1から週3に増やした。練習後にみんなで腹筋、背筋、腕立て伏せ、ダッシュのトレーニングをし、汗を流す。キツかったけど、懸命に食らいついていたと思う。小学生なりに工夫を凝らしていた。そして小学2年生の夏、初めての全国大会である全日本ホカバがやってきた。

結果はまたしても予選リーグ敗退。

頭では納得してた。でも心は納得していなかった。スポーツ漫画のようにいつでも努力は報われるわけはない。卓球歴2年にして惨憺たる成績だ。自然と、涙が頬を伝った。「泣き虫じゃなかったはずなのになぁ」。なんてことを思っていた。学校ではサッカー、野球、なんでもスポーツが得意だったはずなのに、卓球では、全然ダメ。それでもめげずに続けれられたのは卓球が好きだったからなのかもしれない。このころから練習を週3から週4に増やした。日課だった放課後のサッカーもそこそこに6時半から9時まで卓球練習をみっちり。

そして1年後、再び勝負の時を迎える。

文:及川瑞基