遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(36)昌子 源 前編椎本邦一の証言から読む>>「これを決めないとクビだとか、ボールがこぼれていたときは、いろんなことを考えて、最後はほんとどボールも見ていないというような勢いで。だから、気持ち…

遺伝子~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(36)
昌子 源 前編

椎本邦一の証言から読む>>

「これを決めないとクビだとか、ボールがこぼれていたときは、いろんなことを考えて、最後はほんとどボールも見ていないというような勢いで。だから、気持ちで押し込んだゴールでした」

 11月6日対柏レイソル戦。逆転弾を決めた鹿島アントラーズの山口一真は、試合後自身のリーグ戦初ゴールについてそう振り返った。

 この日のスコアラーには6分の先制点が金森健志、27分同点弾の町田浩樹、そして61分の山口と鹿島では若手と言われる選手たちの名前が並んだ。しかし、勝利を手繰り寄せたのは、ベテランたちの修正力だった。

 先制ゴールを手にした鹿島だったが、試合が途切れるたびに、周囲に指示を出す小笠原満男の姿が目に付いていた。だが、9分と24分に失点している。永木亮太がその状況を説明する。

「前半の半ばくらいまでの守備の仕方というのは、重心が後ろになっていました。ボールを持っている選手へプレッシャーをかけられず、ズルズル下がっていたので、失点してしまった。2ボランチ(自分たち)が下がりすぎて、相手のボランチへプレッシャーをかけられていなかったので、満男さんを中心に話をして、4-1-4-1というように、満男さんが中盤の底にいてくれて、僕と(山口)一真で相手の2ボランチを見る形にしました。そこからうまくいきました」

 ベンチで立っていた大岩剛監督は、静かにその修正を見ていた。選手たちの自主性を信じていたのだろう。

「今日はアグレッシブにやろうという話をしていたが、それを小笠原、曽ヶ端(準)、遠藤(康)、永木がプレーで表現してくれた。若手を引っ張ってくれる存在。今日だけを見ても非常に頼りになる。頼りになるという表現は失礼だが、非常に評価している。彼らの経験を若手が吸収していることが、成長できている要因、自信を持てている要因だと思う」

 試合後の会見でそう目を細めている。それを裏づけるのが永木の言葉だった。

 今季は主戦場のボランチだけでなく、左MFなど複数のポジションで起用されている。この日の終盤は右サイドバックを務めた。

 「自分が任されたポジションでやるべきことをやるだけです。自分の持ち味を出しながらも、試合の流れ、チームの状況を考える。そういうところは(湘南ベルマ-レから)鹿島へ来てすごく勉強になっています。そういうふうに考えてプレーしているのが鹿島の選手なので。ずっとそういうことを考えながらやっている満男さんやソガ(曽ヶ端)さんが、それを伝えてくれる。そういうものを継承して、自分たちもやっているし、自分たちのプレーを見て、また若い選手がやってくれればなと思います」

 この日も10月31日のセレッソ大阪戦に続き、若手を中心に普段リーグ戦での先発起用が少ない選手たちがピッチに立った。1-0で勝利したセレッソ戦の勢いを力にし、11月3日ACL決勝戦ファーストレグ、対ペルセポリスFC戦では2-0と完勝した。柏戦での勝利もまた、11月11日敵地(イランの首都テヘラン)でのセカンドレグへ向けた大きなエネルギーになるだろう。

「誰になんて言われようが、鹿島の3番というのは揺るいでない。どんな試合でも俺が支えるという強い気持ちを持ってやってきたから」

 10月24日ACL準決勝対水原三星戦後、昌子源の口から自然と「鹿島の3番」という言葉が出た。長いリハビリを経て、試合復帰してからまだ直前の1試合しか実戦を積めていない。試合勘に不安を残しながら立った大舞台では、短時間で3連続失点。その後同点に追いつき、準決勝は突破できた。その安堵感と共に、2失点に絡んだという事実を噛みしめていた。だからこそ、胸を張ったのだ。



「鹿島の3番」としてチームを引っ張る昌子源

「失点に絡んで、いろんなことが甦ってきた。ここでチームに迷惑をかけたぶん、絶対に俺は決勝で、チームを救う。(岩政)大樹さんに変わって3番をもらい、鹿島のディフェンスを支えてきたのは自分だと言い聞かせてきた。ACL決勝は3番の覚悟を見せられる舞台。その魂を持って挑みたい」

 秋田豊から始まった「鹿島アントラーズの背番号3」の系譜。2015シーズンからその番号を背負った昌子のエピソードゼロ。

――中学時代はガンバ大阪のジュニアユースに所属。Jリーガーというのはそのころからの夢だったのでしょうか?

「あんまり考えたことはなかったですね。確かに小学生のころの夢は”プロサッカー選手”ではあったけれど、現実味もないし、具体的に考えてはいませんでした。ただの夢でしかなかった」

――その後、中学の途中でジュニアユースをやめて、米子北高校へ進学。

「もうプロにはなれないと、完全に諦めていましたね」

――それでも、鹿島アントラーズからオファーを受けました。

「先生から『鹿島がお前に興味を持っている』と言われても、まったく実感がなくて。驚きも興奮もなかった。ただ、そうなんですか……という感じでした。そのとき、『このことは両親以外には言っちゃダメだ』と先生に釘をさされたんです。でも、部室に戻ったらチームメイトが興味津々な表情で『何の話やったん?』と聞いてくるので、『鹿島からオファーがあった』と打ち明けていました(笑)。プロになることを初めて意識したのはこのときですね」

――仲間たちは喜んでくれたでしょう?

「そうですね。ひとりすごい鹿島ファンがいたんですよ。椎本(邦一)さんや熊谷(浩二)さんが、米子へ来てくれたときも、すっごい興奮してました。『ダブル浩二や!』とか言って。『ダブル浩二って何?』と言う僕に、『熊谷浩二と中田浩二や。知らんのか?』って。僕はそれくらい、鹿島のことを知らなかったんですよ」

――それでも当時高校No.1ディフェンダーと言われていた昌子選手。プロ入りは即断したのでしょうか?

「僕自身はそうでしたね。でも、相談した両親は最初僕のプロ入りには反対だったんです。母は大学へ行ったほうがいいと話していましたし、ヴィッセル神戸のユースで指導していたことがある父もプロの厳しさを理解している人だったので、『3年でクビになったら、そのあとどうするんだ』と。でも、そんな父も『鹿島なら行ってもいい』と。周囲も『それはすごいことなんだ』と言ってくれたので、『よし、俺はプロへ行くぞ』って。でも、覚悟とかそういうのはまったくなかったんです。ただ、大学へ行くよりプロへ行ったほうがカッコいいなって。その程度でした。成功してやるとか、プロになる覚悟もないままで」

――自信はあったのでしょうか?

「どうなんでしょうね。ただオファーを受けたわけだから、自信があったんだと思います。でも、そんなのは簡単にへし折られましたけど(笑)」

――2011年鹿島の一員となった直後に鼻をへし折られたと(笑)。

「これはちょっと違うなって。とにかくスピードが別モノでしたね。僕自身高校ではスピードに自信があったんです。でも、(興梠)慎三くんに置き去りにされて。簡単に(笑)。次元が違いました。その慎三くんをサクッとスライディングで止めたのが、イノ(伊野波雅彦)さんでした。それを目の当たりにしたんです」

――心も折れますよね。

「でも、周囲を見れば、イノさん以外にも大樹さん、(中田)浩二さん、青木(剛)さんと、いろんなタイプのセンターバック(CB)が揃っていたので、つぶさに観察して、いいところを盗もうとしました。よいお手本がたくさん在籍していたんです。それに当時コーチ1年目の(大岩)剛さんには、マンツーマンで教えていただきました。コーチの数が多かったので余裕があったんだと思います。あらゆる意味で恵まれた環境で、運がよかったです。しかも当時はCBの人数が少なかったので、紅白戦でCBを務められた。紅白戦に出られない同期もいたのに……」

――Aチームの2トップは興梠選手に、大迫勇也選手ですね。

「そうなんです。剛さんからも『Jリーグの対戦相手でも、この面子が揃うことはない。こんな贅沢はないぞ』って。すごいありがたかったですね」

――1年目はリーグ戦にも出られませんでした。試合に出たいという欲と上手くなりたいという欲。どちらが強かったですか?

「今、自分が試合に出るようになってから思うのは、試合に出たいと思ってやっていたら、試合には出られないということです。自分に足りないところやいろんなことを感じて、それを埋めるような時間を過ごして、プロ選手としての土台を作らないと、たとえ試合に出られたとしても、成長できないと思うんです。僕はその準備を経て、試合に出られるようになったんですが、それでも完成されて出たわけじゃない。未熟のまま試合に出て、完成形に近づいている最中です。試合で経験を積むなかで、試合に出られなかった時間は本当に重要だったなと感じています」

――2年目の2012年、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の決勝戦では先発しました。

「直前のリーグ戦までイバ(新井場徹)さんがずっと先発でしたが、当時のジョルジーニョ監督が、『ナビスコの決勝は昌子で行く』と宣言して。チームメイトもみんな驚いてました。ミーティング会場がザワザワしていたことは今でも覚えています。イバさんの代わりというのはサイドバックでプレーするということ。今までやったことのないポジションでしたが、思い悩む余裕もなかった。決勝の相手は清水エスパルスで、相手の右(FW)は大前(元紀)選手でした。監督からは『大前が水を飲むならお前もいっしょに飲め』と。とにかくマンツーマンでしっかり守れということ。必死でその任務を遂行するだけでした」

――大前選手に決められた得点はPKのみ。途中交代で試合終了時にはピッチに立っていませんでしたが、延長で勝利しました。

「僕と交代したイバさんが持ち味とする攻めのプレーで、試合の流れを引き寄せたんです。監督から『大前はお前のことを嫌がって、外ではなく、中でプレーするようになったな』と言ってもらえました。勝利の瞬間はベンチで迎えましたが、自分の仕事はまっとうできたという実感は強くて、本当に嬉しかったですね。サポーターに認められたなと感じることもできました。きっとサポーターにとっても、『昌子って誰だ』という感じだったと思うけれど(笑)」

――そして、リーグ戦でも左サイドバックで起用されるようになりました。

「勝っていても、負けていても、70分や80分で、イバさんに代わって試合に出られるようになりました。本職のセンターバックではなかったけれど、Jリーグはアウトサイドにいい選手がたくさんいたので、いい勉強の時間になりました」

――しかし、2013年は負傷離脱することになりました。

「5月でしたね。中断前のJリーグで1試合出場して、(トニーニョ・)セレーゾ監督から、『中断明けからはお前を起用する』と言ってもらえた直後のことでした。だから、監督も強く落胆している様子でした」

――手術をしたんですよね。

「本当は、したくなかったんです。手術しますと言われたとき、『手術はイヤです』と言ったら、『だったら一生このままだぞ』と。膝にロックがかかるような動かない状況で、手術しか解決策がなかったんです。父からの『(小笠原)満男さんも膝の大きな怪我をしたけれど、今はこんな偉大な選手になった。誰もが通る道だから、頑張れ』という言葉にも背中を押されて、手術を受けました」

――本当に大変なのは、手術後のリハビリだったのは?

「苦しかったですね。何度もサッカーやめてやるって思いました(笑)。それでも秋には復帰したんです。もう普通にプレーできる状態でしたが、監督から『今季は1分も起用しない』と宣言されて。試合には出たいけれど、再発しないためには、そういう時間が必要なんだろうと理解しました」

――その長い充電期間があったからこそ、2014年以降ずっと主力で戦えたのかもしれませんね。

「あの怪我はさまざまな意味で、僕にとって大きな出来事だったと感じています」