西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(15)【指揮官】ヤクルト・野村克也 前編…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(15)
【指揮官】ヤクルト・野村克也 前編
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四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。
1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ80年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。
1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。あの激戦を戦い抜いた、両チームの当事者たちに話を聞く連載の8人目。
第4回のテーマは「指揮官」。前回の西武・森祇晶に続き、今回はヤクルト・野村克也のインタビューをお届けする。
1993年は長嶋茂雄監督率いる巨人とペナントを争った野村氏
photo by Kyodo News
「森野球」とは、オーソドックスで堅実な「真面目野球」
――現在、1992年、1993年の「ヤクルト対西武」の日本シリーズについて、みなさんにお話を伺っています。
野村 ……全然覚えてないよ(笑)。ただ、イヤだったことだけはよく覚えている。
――「イヤだった」というのは、森祇晶監督率いるライオンズの野球がイヤだったということですか?
野村 うん。あのときは「キャッチャー対決」が話題になったでしょう。森野球とは即ち、川上(哲治)野球。巨人の野球、川上さんの教えをまともに受けている野球だから。
――対する野村さんは、南海ホークス時代の鶴岡一人(かずんど)監督の影響を受けているわけではないですよね?
野村 鶴岡野球とは正反対。反面教師だよ。ああいう軍隊野球は絶対にイヤ。「連帯責任」だとか、普段から軍隊用語が炸裂しているんだもん。エラーしたり、ミスしたりするとすぐに「営倉に入れるぞ」と言われるんだけど、「営倉」なんてピンと来ない。鶴岡さん自身が部隊長だったか、軍隊で偉かったから、軍隊をそのまま野球に持ち込んだんだから。
―― 一方の川上さんは「軍隊野球」ではなかったんですか?
野村 そうだと思いますよ。オレもいろんな監督と対戦したけど、キャッチャーを重要視する監督はすごくイヤだった。野球をよくわかっているから。そういう意味では、巨人の水原(茂)さん、川上さんはキャッチャーの大切さをよく理解していましたよ。
――野村さんの考える「川上野球」とは、具体的にはどのようなものですか?
野村 うーん、何て言ったらいいんだろう? ひと言で言えば「真面目野球」なのか、とにかくクソ真面目な野球ですよ。オーソドックスでセオリー通りで、個々の選手に役割を与えてそれを忠実に実行させて……。森なんかは、まさにそんな野球だよね。
――当時、「キャッチャー対決」「知将対決」と言われたのと同時に、互いに手の内を知り尽くした「キツネとタヌキの化かし合い」だとか、「似た者同士の対決」などと喧伝されていましたね。
野村 いや、2人は全然タイプが違いますよ。彼は「慎重派」で、オレは「いい加減派」だから(笑)。彼の場合は、絶対に負ける戦いはしない。だから監督を引き受けるときでも、恥をかかないように戦力を見極めてから引き受ける。オレは適当だから、ヤクルト、阪神、楽天と、みんな弱いチームを引き受けた。
森監督にはずっとライバル意識を抱いていた
――野村さんは、森監督のことをどのように見ていたのですか?
野村 向こうはどう思っていたかはわからないけど、変なライバル意識というのかな、そういうのがオレにはあった。「森には負けたくない」っていう思いはずっとあったよね。
――それは、森さんが巨人出身者だからですか?
野村 そう。オレ、そもそも巨人コンプレックスだから(笑)。子どもの頃から大の巨人ファンだったからね。彼はスカウトされて巨人に入団したけど、オレは12球団のどこからも声がかからず、南海にテスト入団。選手時代も、監督になってからも、「森には負けたくない」っていう思いはずっと頭の片隅にあったからね。
当時を振り返る野村氏
photo by Hasegawa Shoichi
――1992年の日本シリーズについて伺います。当時、すでに黄金時代を迎えていたライオンズについて、「勝てる」と思っていましたか?
野村 思ってないよ。だって、当時の西武は全然ケタ違いだもの。そもそもあの年は、セ・リーグでヤクルトが優勝できたこと自体が奇跡だったんだから。10年以上も、5位、6位をうろうろしていた球団だよ? そんなチームが西武を倒して日本一だなんて、ずっとずっと遠い道のりだよ。
――でも、シリーズ開幕前に野村さんは「4勝0敗で勝つ」と言い続けていましたよね。
野村 そんなこと言ったっけ? でも、それは「負ける」と思っていたから言っているんだよ。勝つ自信があったらそんなこと言わない(笑)。下手したら「0勝4敗もある」って考えてたから。
――1992年の初戦は、杉浦享選手の代打サヨナラ満塁ホームランという劇的な勝利を収めました。これで、少しは手応えを感じられたのではないですか?
野村 手応え? そんなものは感じませんよ。オレはヤクルトにいる間は、一度も手応えなんか感じたことはなかったから。このときだって、西武を相手に「とにかく善戦しよう」「とにかく4連敗だけは避けよう」って、そんな思いだけだったと思いますよ。
あのスライディングは広澤が悪いわけじゃない
――1992年のシリーズでは、第7戦の同点で迎えた7回裏、広澤克実さんのスライディングが問題となりました。
野村 あぁ、あの下手くそなスライディングね。よく覚えていますよ。普通なら真っ直ぐ走ればいいのに、タッチをかわすようなスライディングをしたんだよ。あれはスタートが遅れたんだよな。本来ならば楽々セーフですよ。でも、あれでオレの走塁観が変わったのも事実。あのシーンは、とても思い出深いね。
――走塁観が、どのように変わったのですか?
野村 例えばあの当時は、一、三塁のチャンスの場面では「バットにボールが当たる瞬間をしっかりと見極めろ」とか、「ライナー、フライなら戻れ。ゴロなら行け」という考えだった。でも、そんなことしてたらスタートが遅れるわけです。打球を確認してからスタートするわけだから。でも、そのリスクを無視する必要もあるんじゃないか。そんなことを考えるようになったのが、あの広澤のスライディングですよ。
――この場面がきっかけとなって、いわゆる「ギャンブルスタート」が考えられたと言われていますね。
野村 そう。ここでライナーが飛んだら仕方がない。それはすべて監督の責任でいい。そういう割り切りが生まれたのが、この場面、このスライディングですよ。
――広澤さんは「このスライディングで負けてしまった」と、今でも責任を感じているとおっしゃっていました。
野村 いや、彼はセオリー通りの走塁をしただけですよ。打球を確認してからスタートする。それは、あの当時のセオリーだったから。だから、あれはあれで間違いじゃないし、しょうがない。あれはすべてオレの責任です。でも、そのおかげで「勝負どころでは一か八かの勝負をかけなければいけない」ということを教わった。
――この経験を踏まえて、1993年の日本シリーズではギャンブルスタートを成功させて勝利します。こういうことの積み重ねでチームが強くなっていく実感はありましたか?
野村 そう。やっぱり勝って学ぶよりも、負けて学ぶことの方が多いから。負けて痛い目に遭うからこそ、いろんなことを学ぶ。でも、西武に対する「自信」なんてものはなかったね。せいぜい、「そんなに劣等感を持たなくてもいいのかな?」っていうぐらいの感覚だった気がしますね。
――1992年に関して言えば、野村さん自身に「勝てるわけない」という思いがあったし、ライオンズに対して劣等感も持っていたんですね。
野村 それも勉強になったよね。監督の考えていること思っていることは、自然と選手たちにも伝わるんだなって。そういう怖さを知ったよね。「これは西武には勝てないぞ」って思うじゃない? そうすると、それはムードとして伝わってしまうんだね。やっぱり、監督自身が本当に自信を持っていないと、いくら口で「自信を持て!」って言ったって、それは無理なんだよ。そういうことをこの年のシリーズでは学んだ気がしますね。
(後編に続く)