「君が高校3年生の夏、甲子園は100回大会を迎える。それを一緒に目指さないか」 こう声をかけたとき、ひとりの中学生の見せた笑顔が、下関国際(山口)を率いる坂原秀尚(さかはら・ひでなお)の目に焼き付いている。 3季連続出場となった今夏の甲…

「君が高校3年生の夏、甲子園は100回大会を迎える。それを一緒に目指さないか」

 こう声をかけたとき、ひとりの中学生の見せた笑顔が、下関国際(山口)を率いる坂原秀尚(さかはら・ひでなお)の目に焼き付いている。

 3季連続出場となった今夏の甲子園で悲願の初勝利を上げ、8強進出を果たした下関国際。接戦の末、準々決勝で日大三(西東京)に敗れたものの、2回戦で創志学園(岡山)の2年生エース・西純矢を攻略するなど、”快進撃”と呼ぶにふさわしい勝ち上がりを見せた。

 その中心にいたのが、エースの鶴田克樹(かつき)だった。甲子園では全4試合を投げ抜き、打っても4番として山口大会準決勝、決勝の2試合連続で本塁打を放った。



夏の甲子園でチーム初のベスト8の立役者となった鶴田克樹

 甲子園で自己最速の147キロを計測したストレートだけでなく、打者の手元で鋭く変化するスライダー、ツーシームを操る完成度も持ち合わせ、来たるドラフトでの指名に期待がかかる。

 まさにチームの大黒柱と呼べるような活躍を見せた鶴田だが、中学時代は実績に乏しく、”無名”の存在だった。坂原が鶴田との出会いを回想する。

「2015年の8月が終わりに差し掛かった頃、下関の硬式チームの練習を見に行ったんです。そのときに見かけたのが最初の出会いですね」

 当時、中学野球を引退して間もなかった鶴田は、住まいのある福岡県北九州市から程近い下関市で活動する硬式クラブチームの練習生として参加していた。しかし、坂原が注目していたのは鶴田ではなかったという。

「鶴田と同じ中学で、一緒に練習に参加していた左投手を見ようと思って訪問したんです。でも、その子はすでに福岡の学校への進学が決まっていた。『残念だな』と思っていると、決してセンスがあるとは言えない、ドスドスとガニ股で走っている捕手がいて。それが鶴田でした」

 当時から170センチ後半の身長はあったものの、二塁送球ではヒジが下がり、サイドスローのような形でスローイングをしていた。加えて股関節は固く、「大げさに言えば”中腰”に近い格好でキャッチャーボックスに座っていましたね」と坂原が振り返る。

 来年度の部員獲得にあたり、当時の坂原にはある強い思いがあった。

「この2015年、夏の山口大会で決勝まで勝ち進みながら甲子園に行くことができませんでした。だからこそ、100回大会の夏という大きな節目での甲子園出場を何とか達成したかった。それに向けて、野球の技術以上に『下関国際で100回大会の甲子園に出場する』という強い気持ち、”志”を共有できる選手をできるだけ多く探したいな、と」

 グラウンドで話すなかで垣間見えた鶴田の性格、「ウチの練習は厳しいと思う。それでも大丈夫か?」と聞いた際の反応を見て、冒頭の言葉で入学を打診した。

「本人もまさか野球で高校に誘われるとは思っていなかったみたいで、すごく嬉しそうにニコッと笑っていたんです。その日のうちにご両親にも話してくれて、ウチに来てくれることになりました」

 こうして下関国際の門を叩いた鶴田だったが、入学当初は「将来のレギュラー候補」と呼べる選手ではなかった。

 本人が「入ってすぐは周囲に圧倒されていました」と語るように、1年秋までの県大会では出番なし。練習試合でも、レギュラークラスが揃うAチームには入れず、Bチーム暮らしが続いた。

 大きなターニングポイントとなる投手転向は、思わぬ形で訪れる。1年秋に行なわれた1年生大会でのことだった。

「当時エース格で考えていたのが吉村(英也/甲子園では左翼で出場)でしたが、1年生大会を臨むにあたって、投手が吉村ひとりでは苦しい。そこで鶴田を投げさせてみたんです。当時は中学時代の名残でサイドスロー気味のフォーム。しかも、フォームが固まっていないこともあって、投げる度に微妙に投げ方が変わる状態でした。それでもなんだかんだ四球は出さない。動き自体は決して器用とは言えませんでしたが、そこの繊細さ、器用さはあるのが印象的でしたね」

 この大会をきっかけに、本格的に投手として練習を重ねるようになり、2年夏に急成長を見せる。練習試合で”格上”と目される2チームを相手に、立て続けの好投を見せたのだ。

 さらに「入学時から強く振る力はあった」と坂原が語る打力を武器に、2年夏に一塁のレギュラーを奪取。これに関して坂原は「以前の自分だったら使っていなかったと思う」とも振り返る。

「元来、ウチは守備と走塁のチームです。それもあって、以前は『打てるけど、守備に不安がある』選手をレギュラーで使うことはほとんどありませんでした。しかし、2015年夏の県大会決勝敗退を通じて、『打力のある選手を打線に置かないと甲子園には行けない』と痛感しました。そこで、本来は一塁の川上(顕寛)を三塁にコンバートして鶴田を一塁で使うことにしたんです」

 その目論見通り、準決勝では8回に1点差へと詰め寄るソロ本塁打を放ち、逆転劇への口火を切った。投手としては「組み合わせが決まった時点で、先発させると決めていた」という準々決勝で、前年の優勝校である高川学園を2安打完封。下関国際にとって創部史上初めての甲子園出場に大きく貢献した。

 この投打に渡るブレイクを通じて、「鶴田を軸に100回目の夏を目指す」と坂原の構想は固まった。

 2年秋の中国大会決勝でおかやま山陽(岡山)相手に最大9点差を追いつかれながらも、試合終盤まで鶴田にマウンドを任せたのも、エースとしての自覚を促すためだった。

 2季連続出場となった3年春のセンバツでは、直球が自己最速となる145キロを計測したものの、初戦で創成館(長崎)に1-3で敗退。夏の山口大会連覇、3季連続の甲子園がかかる勝負の夏に向けて、坂原は鶴田にある提案をした。

「センバツが終わった後に『寮に入らないか』と提案しました。秋の中国大会で負けた後からは週の何回かを寮で過ごしていましたが、より自覚を得る、練習に集中するために完全に入寮したほうがいいと思っていたんです」

 それまで鶴田は、北九州の実家から電車で通学していた。中国大会直後に入寮を薦めた際は、あまり乗り気ではなかったが、センバツ後は「わかりました。入寮させてください」と、即決した。

 そこからはより一層練習に打ち込む日々が始まる。坂原と話し合い、「大会直前にピークを迎えるのではなく、終盤、もっと言えば甲子園の決勝で最高のコンディションになるような調整をしよう」と方針を定め、4月からは早朝4時30分に寮を出発し、故障の影響で冬場に走り込めなかった主将の濱松晴天(そら)とともに、チーム全体での朝練前に走り込みを行なうことが日課となった。

「走り終えたときに、自然と涙が出たこともある」と鶴田が語るように、6月の第2週まで続いた夏前の追い込みは過酷を極めたが、強く芽生えたエースの自覚が妥協を許さなかった。

 技術面では、センバツ後にツーシームを習得。夏の大会の過密な日程を考慮し、少ない球数で打者を打ち取る狙いがあった。この新球習得に関しても、「鶴田が元来持つ性格が生きた」と坂原は語る。

「例年、投手陣にツーシームを教えていますが、派手な変化をしない分、『本当に有効なのかな』と懐疑的な投手も多いんです。鶴田には『とりあえず取り組んでから考えてみよう』といった素直さ、柔軟性がありました。ツーシームを覚えるのも、その重要性に気づくのも早かった。また、球速が上がるにつれて、打者よりも球速を意識してしまう投手も少なくありませんが、彼は『投手の仕事はアウトを奪うこと』という意識が最後までブレなかった。センバツで145キロを出した後も、そこは全く変わらなかったですね」

 連投を見据えた体力の底上げと新球の習得。最後の夏を迎える準備は整いつつあったが、坂原のなかにひとつの不安があった。

「酷暑ともいえる今年の夏を戦うなかで、『4番・投手』はキツイんじゃないか、と思ったんです。加えて、3年前の夏に県大会決勝で敗れたときにも、エースに4番を打たせていた経験も頭をよぎりました」

 負担を減らすために、8番への打順変更を検討した。実際に「8番・投手」で起用した練習試合で見事な投球を見せたことも、より坂原を悩ませた。鶴田本人に「夏は打順を下げようと考えているが、どう思うか」と尋ねると、強い口調でこう返答したという。

「『ここまで4番でやってきたので、夏も貫きたいです』と返事がありました。それに耐えるだけの練習をしてきた自負もあったんだと思います。それと、私の表情から『本当は4番に置きたい』という気持ちを汲み取られたのかもしれませんね(苦笑)。打順を組む上では、当然4番鶴田がベストオーダーでしたから」

 山口大会では投打で遺憾なく実力を発揮し、3季連続の甲子園出場を手繰り寄せた。甲子園では全4試合を完投。山口県勢にとって13年ぶりとなる夏8強進出の原動力となった。

 日々積み重ねた鍛錬と、全国舞台で残した成績。「将来的に行けたら」と考えていたプロの世界に手が届くかもしれない……。そう思わせるには十分だった。

 大学進学が決まっていたが、甲子園終了後の進路相談のなかで、「プロ志望届を提出したい」という思いを坂原に打ち明けた。

「夏を終えて、『可能性があるのなら、そこに懸けて指名を待ちたい』と強く思いました。監督さんから育成の環境、そこからチャンスを掴む難しさについての説明もいただきました。それを踏まえても、『下位、育成からでも這い上がってみせる』という気持ちが強くあります」

 こう力強く語る鶴田の姿には、ギリギリの部員数、雑草だらけのグラウンドで監督生活をスタートさせ、時に周囲から「絶対に無理だ」と笑われながらも、情熱を注ぎ、下関国際を有力校へと成長させた坂原に通ずる”熱さ”があった。

 自分の下を巣立つ”愛弟子”について、坂原は期待を込めてこう語る。

「体型と雰囲気から”剛腕”と見られることも少なくありませんが、彼の最大の武器はきっちりピッチングができるところです。優れた指先の感覚が生む制球力があって、左右それぞれの打者を攻めきれる変化球を持っている。高校時代も”格上”の相手と対戦するなかで持っている能力を開花させたように、高いレベルで揉まれていくなかで、もっと能力が引き出されていく、成長できると思っています」

「ピッチング、野球について何もわかっていなかった。本当にイチから教えていただきました」と振り返る”無名の捕手”から、全国8強投手へと成長を遂げた。高校3年間で手にした確かな自信と指揮官譲りの熱い思いを胸に、運命の「10月25日」を待つ。