西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(13)【指揮官】西武・森祇晶 前編() …

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(13)

【指揮官】西武・森祇晶 前編

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 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ80年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。あの激戦を戦い抜いた、両チームの当事者たちに話を聞く連載の7人目。

 第3回のテーマ「同級生」に続く第4回のテーマは「指揮官」。今回は西武の監督を務めていた森祇晶のインタビューをお届けする。


西武の黄金時代を築いた森監督

 photo by Kyodo News

あの2年間は「監督同士の戦い」だった

――現役時代、指導者時代も含めて、森さんは何度も日本シリーズに出場されています。その中で1992年、1993年、指揮官としてスワローズと戦った2年間のシリーズは、どのような印象がありますか?

森 おっしゃる通り、僕はたくさんの日本シリーズを戦ってきましたが、その中でもあの2年間はまったく”毛色の違う”日本シリーズというのかな。1992年、そして1993年の日本シリーズは球史に残るシリーズだったと思う。もっと正確に言うとしたら「監督同士の戦い」というのかな。正直なところ、「野村ヤクルト」との個人的な戦いだったシリーズ。そういう見方を当時はしていましたね。

――「チーム」ではなく、「監督」として戦った日本シリーズだった?

森 うん。それまでに経験したことのないシリーズでした。表面的に見れば、1992年は西武が4勝3敗、1993年はヤクルトが4勝3敗で、ともに一度ずつ日本一になっている。でも、その内容たるや、一歩間違えればどっちに転ぶかわからない場面の連続でしたね。相手がこんな手を打ってくる。だから、こちらは我慢する。次にこちらが手を打つ。しかし、相手は誘いに乗ってこない。そういう場面がいっぱいあったし、久々にチームの戦いの他に、監督同士の戦いというのを感じたシリーズでしたね。

――それは、1990年のジャイアンツ、翌1991年のカープとの日本シリーズとはまったく違う心境だったのですか?

森 広島のときも、巨人のときも相手の監督を意識する戦いはしてこなかった。でも、1992年、そして1993年のヤクルト・野村(克也)監督との戦いというのは、お互いが野球を知り尽くした監督同士が戦うわけです。用兵にしても作戦にしても、お互いの読み合いなんだよ。「ここでピンチヒッターを出してくるだろう」「ここでピッチャーを代えてくるだろう」と思って”誘い”を出しても乗ってこなくてね。その逆に、相手が誘いを出してきても、僕も決して乗らなかった。

1992年第7戦、石井丈裕に代打を送らなかった理由

―― 一流の剣豪同士が向き合ったまま、お互いの隙を探りながらピクリとも動けない状況に似ていますね。

森 野村さんとの戦いではむやみに動いてはいけないし、ハッキリ言えば「動けない」ということでもあります。僕にとっても、とてもいい勉強になったよ。たとえば1992年の優勝を決めた試合で、石井丈裕が打席に入った場面がありましたよね。

――1992年第7戦、得点は1-0でスワローズがリード。7回表2アウト1、2塁の場面ですね。同点に追いつきたいところでしたが、ライオンズは代打を使わずに、好投していた石井丈裕投手がそのまま打席に入りました。

森 あの場面で、石井丈裕にピンチヒッターを出さなかったでしょ。もしも、この試合を落として日本一を逃したら、「何で代打を使わないんだ」と非難を浴びることになる。でも、シリーズも7戦までくると、こちらのリリーフ陣も疲れが溜まっているわけですよ。ここでむやみに(石井を)代えて、相手打線の餌食になるのなら、「8回の攻撃は一番バッターからだ」と割り切って代えない方がいい。そう考えたんだね」


当時を振り返る森氏

 photo by Hasegawa Shoichi

――結果的には、石井丈裕選手がセンターに飛球を打ち上げ、それがセンター・飯田哲也選手のグラブをかすめて同点打となりました。

森 このヒットは望んだわけでもなく、期待したわけでもない。そもそもバッティング練習のときから、彼の場合はバットに当たる確率が非常に低かったんだからね。でも、それがヒットになる。それが野球だよな。そして、1-1の同点になった後、8回裏に1アウト満塁のピンチを迎えた場面では、辻(発彦)が見事なプレーを見せて三塁ランナーの広澤(克実)をアウトにした。そうそう、延長戦になった10回表の攻撃も印象深いなぁ。

――1-1の同点のまま延長戦に突入しても、ライオンズは石井丈裕、スワローズは岡林洋一両先発投手が依然としてマウンドに立ち続けていました。

森 10回表、先頭の辻が2ベースヒットで塁に出た。二番の大塚(光二)がバントで送って1アウト三塁。この場面で、僕は「三番打者の秋山(幸二)は敬遠されるだろう」と思っていました。そのとき、四番の清原(和博)はベンチにいた。四番には守備固めとして奈良原(浩)が入っていたからね。だから、「当然、敬遠だろう」と。

――しかし、スワローズベンチは秋山選手と勝負。結果的に犠牲フライで2-1とリードすることとなりました。

森 後日、この場面について野村監督に「なぜ、勝負したのか?」聞いたことがあるんです。すると、野村さんが言ったのは、「塁上には辻と秋山。打席には奈良原となると、3人の俊足選手がそろうことになる。しかも奈良原は小細工が利くし、何をしてくるかわからない。まったく読めない」と言うんだね。その結果、「秋山なら三振を取れる」と考えて勝負したそうです。でも、岡林の投球が甘くなって犠牲フライを打たれた。もしも、ボール1個分外に行っていたら空振りだよ。そんな駆け引きが、あの場面では行なわれていたんです。

――まさに、森監督、野村監督の見えざる駆け引きが繰り広げられていたんですね。

森 これは、野村監督というすばらしい監督相手じゃなかったら、僕だってそこまで考えないし、読まないし。本当に監督同士の戦いという日本シリーズでしたね。

清原の途中交代は「非情采配」ではない

――たとえば、1992年第7戦、チャンスの場面で初球に凡フライを打ち上げた直後に、四番の清原和博選手が途中交代をしています。当時は「懲罰交代では?」と報じられました。この場面では、あえて「動いた」のでしょうか?

森 あれは決して懲罰じゃないですよ。この年のシリーズでの彼は本調子じゃなかった。そして、この試合でもチャンスで凡退をした。彼だってプライドがあるから、それでも使い続けることは彼のためにはならない。そう判断したことと、清原が引っ込んでもマイナスにならないと考えたから、あの場面で交代をしただけです。

――清原選手を途中交代してもマイナスにならないとは、どういうことですか?

森 サード・清原に代わって、ショートの石毛(宏典)をサードに戻し、ショートに奈良原を入れれば、守備固めとしては何も問題はないわけですから。後日、清原に聞いたら、「外されてホッとした」と言っていました。はたから見れば「非情采配」と見えるかもしれない。でも、あれだけの男のプライドを考えたら、外してやることも必要だった。それだけのことです」

(後編に続く)