西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(12)【同級生】ヤクルト・荒木大輔 後編…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(12)
【同級生】ヤクルト・荒木大輔 後編
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93年シーズンは、心身ともに絶好調だった
――1992年に14年ぶりのセ・リーグを制覇したものの、日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗で敗れました。しかし、翌1993年もスワローズはリーグ優勝を成し遂げました。1993年の荒木さんは8勝4敗でしたが、この年の調子はいかがでしたか?
荒木 体調はよかったですね。野村(克也)監督からも配慮をされていましたから。ほとんど「中6日」で投げていたんですけど、監督から「中5日、中4日で投げられないのか?」って何度も聞かれました。でも、僕はシーズンを通して投げたかったので、「無理です」ってハッキリ言っていましたね(笑)。

1992年の日本シリーズ初戦に先発した荒木 photo by Kyodo News
――この年は、「シーズン全体」を見据えてペナントレースに臨んでいたんですね。
荒木 そうです。前年に西武といい勝負ができたことで、「次は勝てる」という自信が生まれていました。当時は、川崎(憲次郎)、西村(龍次)、トモ(伊藤智仁)がすごかったので、「こいつらについていけば絶対に優勝できる」と思っていたし、僕はローテーションの谷間をしっかりカバーすればいいと思っていました。「谷間は任せろ」という感じでしたね。
――ローテーションの谷間を中心に登板して、シーズンで8勝を挙げたというのは、チームにとっても大きいことですね。
荒木 後にコーチを経験して感じたことですけど、そういうピッチャーがいないとシーズンを勝ち上がることは難しいんです。ローテーションの谷間だとか、負けている試合で試合を壊さずに最後まで持っていくピッチャーは、優勝するチームには欠かせない存在。この年の僕は決してエースではないけど、谷間を埋める役割はきちんとできていたと思います。
――1993年のスワローズ投手陣の成績を見ると、伊東昭光投手が13勝、西村投手が10勝、川崎投手が9勝しています。この他に荒木さんが8勝、リリーフの山田勉投手が10勝、高津臣吾投手が6勝をマークし、故障離脱したものの伊藤智仁投手が前半戦だけで7勝。満遍なく勝ちを拾って、シーズン80勝を記録しています。
荒木 そうですね、山田がリリーフで10勝していますからね。正直に言うと、アイツは僕の勝ち星もかなり消しているんです(笑)。そのたびにメシに連れて行って、「いいから食え。終わったことはしょうがないんだ」って言っていました。でも、リリーフピッチャーが10勝もするというのは、それだけ粘り強い攻撃をする強さがあったということですよ。
初戦の初回に2つの死球。それでも動揺はなかった
――1993年の日本シリーズは、再びライオンズとの激突でした。シーズン中はローテーションの谷間中心の登板だったのに、荒木さんは初戦の先発マウンドを託されましたね。
荒木 リーグ優勝が決まった翌日の全体練習のときに、神宮のブルペンで監督に告げられました。確か、「1戦と6戦を頼むぞ」と言われたと思います。この年はデストラーデが抜けたこともあって、めちゃくちゃ気がラクでした。清原(和博)だ、秋山(幸二)だと言っても、ある程度はイメージができていましたから。体調もよかったし、気持ちも入っていたので、すごくいい状態でシリーズに臨めましたね。

映像を見ながら当時を振り返る荒木氏 photo by Hasegawa Shoichi
――10月23日、当時の西武球場で行なわれた初戦。荒木さんは、ライオンズ一番・辻発彦選手に死球を与えます。そして、1アウト二塁の場面では、三番・石毛宏典選手にも死球。この場面を振り返っていただけますか?
荒木 西武の打者がバッターボックスぎりぎりのところに立っているのはわかっていました。ベンチではその点を心配していたようですけど、「大丈夫、内角を攻める」って言って、あのボールを投げました。投げミスで当たったのではなく、厳しいコースを狙って投げた上でのデッドボールだったので、何とも思っていなかったです。
――「厳しいところを攻めろ」というのは、ベンチからの指示だったのですか?
荒木 そうです。ミーティングで言われていました。西武打線がどの程度内角のボールをさばけるかを見たかったんだと思います。でも、それが豪速球ピッチャーじゃダメなんです。抑えて当たり前だから。でも、僕のような130キロ後半ぐらいの投手のボールで、「どの程度通用するのか?」を試したかったんだと思います。
――荒木さんならば、内角をきちんと投げ切るコントロールと度胸があるから、その点を野村監督は見越しての初戦登板だったのでしょうか?
荒木 後に、そういう意味のことを監督に言われました。要は偵察要員のようなものですよ。それが、この年のシリーズでの僕の役割だったと思います。でも、もしも僕が監督だったとしたら、「初戦・荒木」ということはないですけどね(笑)。
――初回にいきなり2つのデッドボールを与えて、動揺はなかったのですか?
荒木 ないですね。自分のミスだったら動揺はあったと思うけど、「こういうボールを投げよう」という自分の意図通りでしたから。このときは、ヤクルトベンチのほうが怒っていましたよ。「避けられるだろう!」って。
――1回表にハウエル選手の3ランホームランで先制したものの、1回裏には2つのデッドボールがきっかけとなって1点を返されました。それでも、「意図通り」なのですか?
荒木 はい、そうです。でも、これ以降、出すはずのインサイドのサインを古田(敦也)が出さなくなったんです。だから、ずっと首を振って、インサイドのサインが出るまで待ちましたね。古田としては甘く入ることを恐れたんでしょう。でも、僕はもっとインサイドを攻めるつもりでサインを待っていました。
――翌日の第2戦目の試合前には石毛選手に謝っていますね。でも、意図した通りのボールを投げたわけだから、あまり罪悪感もなかったのですか?
荒木 なかったですね。本当に申し訳ないとは思いますし、頭に当たったり骨折してしまったりした場合には、ちょっとさすがにアレですけど、それ以外ならば別に……。それを気にし始めたら、ピッチャーはやれないんで。
――このときのデッドボールが原因となって、石毛さんは「今でもペンが握れない」とおっしゃっていました。
荒木 えっ、本当ですか? それはちょっとマズいですね。今度お会いしたら、ちゃんと謝っておきます。
「本当の強さ」はヤクルトではなく、西武にあった
――1993年の日本シリーズでは初戦に勝利投手となりましたが、当初予定されていた第6戦の先発は実現しませんでした。これはどういう事情からですか?
荒木 一度、雨で流れた試合がありますよね。
――10月29日の移動日を挟んで、30日の第6戦が雨天順延となっています。
荒木 そうです。それでスライド登板ではなく、先発そのものが流れたんです。第7戦までもつれたけど、第1戦の勝利投手が1試合だけの登板だったんです(笑)。「そんなピッチャー、今までいたのかな?」って、みんなと話していたことを覚えています。確か、第6戦はタツ(西村)が先発したんだけど、「お前、肩が痛いだろ? オレと代われ」って、冗談を言っていました。
――調子もよくて、自信もあった荒木さんとしては、もっと投げたかったですね。
荒木 だから、第7戦はブルペン待機だったんだけど、複雑な思いでしたよ。「もっと投げたい」と思っているんだけど、僕が投げるとしたら、先発の川崎が打たれなきゃいけないわけだし……。でも、最後、高津が胴上げ投手になった瞬間は本当にうれしかった。自分が投げないのにあそこまで喜べたのは、アレが初めてのことでしたね。
――2年間で全14試合を戦い、7勝7敗。それぞれ、日本一には一度ずつ輝きました。これは互角の戦いだったと考えていいのでしょうか?
荒木 いや、本当の強さは西武にあったんじゃない? ヤクルトは若い選手が出始めてきて勢いで勝ったけど、1994年には4位になるわけで、こういう状態では本当の強さはまだ身についていないですよね。でも、西武はずっと勝ち続けていた。やっぱり、本当の強さは西武にあったと思いますね。
――あらためて、この2年間を振り返っていただけますか?
荒木 めちゃめちゃ楽しい2年間でした。故障から復帰した後だったから、「野球がやれる」という喜びがありました。そもそも、「日本シリーズで投げられる」とか、「シリーズで勝ち投手になる」なんて、考えもしなかったですからね。今から振り返っても、本当に楽しく野球ができた2年間でしたね。