【大仁田厚の邪道なレスラー人生(5)】

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 長州力選手との電流爆破デスマッチという目標を終え、2001年7月の参議院選への出馬を決断しました。結果は当選し、一期6年を参院議員として務めました。「プロレスラーに何ができる」って言われましたし、確かにそうかもしれません。政界に入ってもオレにできるのはやっぱりプロレス。2002年9月27日にアフガニスタンの首都カブールを訪問してプロレスを開催しました。




昨年10月の7度目の引退試合で藤田和之と対戦した大仁田

 当時は、前年に9・11米国同時多発テロが起きて、アフガニスタンが混迷の度合を深めている時期でした。「何とか現地の子供たちを元気づけたい」という一心でしたね。「売名行為」とも言われましたけど、何をやっても批判を言う人はいるから、自分が今、できること、やりたいことをやろうと考えていました。

 現地では当時大使だった駒野欽一さんに協力していただいて、対戦相手に雷神矢口選手を連れてアフガニスタンへ行きました。リングはないから体操用のマットとポールで作って、レフェリーもいないですから、同行した東京スポーツの記者に頼みました。矢口選手と2人で試合ごとにコスチュームを変えて、3試合やりましたよ。

 子供たちはものすごく喜んでくれました。あらためてプロレスが持つ凄さ、パワーを感じましたね。東京ドームで6万人を集めるのもプロレスだし、リングがなくても見ている人を感動させることができるのもプロレスなんです。カルザイ大統領とも会談して、自分なりにアフガニスタンの窮状を日本の国民に伝えることに尽力できたと思っています。

 議員時代の2002年2月には、オレが旗揚げしたフロンティア・マーシャルアーツ・レスリング(FMW)が倒産するニュースもありました。前年の10月に、団体のエースだったハヤブサ選手が試合中の事故でリングに立てなくなって、観客動員が減って経営も苦しいことは聞いていました。

 いろんな経緯があってオレを追放した新生FMWでしたが、そんな苦しい状況を聞いて、荒井昌一社長に観客動員の”テコ入れ”として「ノーギャラで参戦」を打診したことがありました。でも、荒井社長は受け入れてくれなかったですね。やっぱり、どんなに苦しくても大仁田厚の力は借りたくないという意地があったんだと思います。

 荒井社長は、FMWを旗揚げしたときに最初に募集した社員でした。リングアナウンサーを務めてくれて、旗揚げ戦でマイクが壊れたときには、とっさに機転を利かせて地声でコールしたことがありました。すべてにおいて一生懸命で誠実な男でした。

 その荒井社長は、倒産から3カ月後の5月に自ら命を絶ちました。亡くなる前にFMWが倒産に至った経緯をまとめた本を出版して、その中でオレのことも批判していましたね。

「倒産したのは大仁田のせいだ」と言う人もいましたが、実際、オレは倒産する4年前に追放されていたわけですから、それは筋違いなんじゃないかと思います。荒井社長はもっと「大仁田」という名前を利用してもよかったんじゃないかという思いが頭をよぎることもあります。ただ、自ら命を絶ってほしくはなかった。今はそれだけを強く思います。

 オレは議員生活を終えて、引退と復帰を繰り返したことで批判を浴びました。師匠のジャイアント馬場さんからは「ひとつのことだけをやれ」と教えられましたが、自分の中では”プロレス”という一本の芯は守ってきたつもりです。その一方で、自分としては、思ったままに生きていきたいという思いがあります。

 昨年の10月31日、後楽園ホールで7度目の引退試合をやったときも、本気で辞めるつもりでした。60歳を迎えて、さすがに電流爆破を続けるには体力が持たなくなったことを痛感しました。肉体的に限界を感じて、本当に引退を決意したんです。

 もうプロレスをすることは絶対にないと思い、7度目の引退試合には、デビューした原点である後楽園ホールを選びました。引退セレモニーでは、おふくろ(松原巾江さん)が初めてリングに上がってくれた。本当にバカ息子で、おふくろには迷惑をかけっぱなしで、リング上でも「出来の悪い息子ですみません」って頭を下げました。おふくろは、オレがプロレスをやってる間は大好きな日本茶を飲まないで応援し続けてくれました。すべてがありがたくてね。涙が込み上げてきましたよ。

 引退試合には、かつてのFMWの選手もたくさん参戦してくれて、みんなに「ありがとう」の気持ちでいっぱいになりました。リングに未練はない、思い残すことはないと7度目の引退をしたとき、「町づくりをしたい」という新たな夢が湧き上がってきました。

「地方創生」を掲げて、引退前の何年間かは全国を回りました。地方から日本を元気にしたい、そのモデルケースになるような町を作りたいと思ってね。年配の方々などに優しい町にしなくちゃいけないし、子どもの教育についても、ICT(情報通信技術)を活用すれば地方格差もなく、独自性を打ち出せる。

 そう思っていたときに、関係者からおふくろの故郷である佐賀県神埼市での市長選出馬を打診されて、ここで次の人生をチャレンジしようと決意しました。準備期間も短く、いきなり東京から来た”よそ者”でしたが、閉鎖的ではなく開かれた市政を目指そうという自分の志に賛同してくれ温かく迎えてくれる新しい仲間がたくさんできました。

 4月15日が投開票日の選挙戦は現職市長との一騎打ち。結果は、その市長さんが9002票で私が8025票と、977票差で敗れました。結果は無念でしたが、これだけの市民が私に神埼市の未来を託そうとしてくれたことは、とてもうれしく誇りに思いました。

 このときに思ったんです。負けは次へのスタートだと。自分を見つめ直すときがきたと、胸の中で誓いました。