西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(7)【参謀】ヤクルト・丸山完二 前編() 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、&…

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(7)

【参謀】ヤクルト・丸山完二 前編

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 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ80年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。あの激戦を戦い抜いた、両チームの当事者たちに話を聞く連載の4人目。

 第2回のテーマは「参謀」。前回の西武・伊原春樹に続き、今回はヤクルトのヘッドコーチを務めていた丸山完二のインタビューをお届けする。




1992年の日本シリーズ前に握手を交わす、西武の森監督とヤクルトの野村監督 photo by Kyodo News

「歴代監督の中で、野村さんはもっとも決断力のない監督」

――丸山さんは、前身の国鉄、サンケイ時代からスワローズひと筋の野球人生でした。1992年は野村克也監督が就任して3年目。丸山さんはヘッドコーチでしたね。

丸山 1990年に野村さんが監督に就任したとき、僕自身もすごく勉強になりました。それまで、僕らはずっと「投手側から見た野球」しか経験していなかったけれど、野村さんは自分の経験から、「捕手側から見た野球」という観念を教えてくれた。キャッチャーはどんな思いでサインを出し、ピッチャーはどういう考えで投げるのか。選手たちにとっても、僕らコーチにとってもすべてが目新しかったね。

――丸山さんは三原脩氏、荒川博氏、広岡達朗氏、関根潤三氏ら、個性的な監督の下でコーチを務めてきましたが、野村監督とはどんな監督でしたか?

丸山 現役時代、コーチ時代を含めて、私は16人の監督に仕えましたけど、野村さんがもっとも決断力のない監督でした。

――「決断力がない」、ですか?

丸山 えぇ。今もそうだと思うけど、私がヘッドコーチだった頃は、野村監督が作戦を決めて、横にいる私がサードコーチャーにサインを出す。そして、サードコーチャーがバッターにサインを伝える。そういう流れでした。でも、野村さんは「ひょっとしたら、ここは外されるのでは?」とか、「バントシフトを敷かれるかも?」と、いろいろなことを考えるわけです。そして、それを考えている間に場面はどんどん進んでいく。ようやく、「バントや」と決断するんだけど、私はいつも「監督、もう遅いですよ」って(笑)。投手交代もそうでしたね。決断を迫られる場面なのに、その判断は遅かった。

――いろいろなシチュエーションが頭に浮かぶからこそ、決断が遅くなるんですか?

丸山 そうかもしれないですね。一度、野村さんに言われたことがありますよ。「お前、オレがブツブツ言っているときは迷っているときなんだから、そういうときは何かアドバイスしろよ」って。でも、僕は絶対にアドバイスしなかった。だって、失敗したら「お前のせいだ」って怒られるし、後で何を言われるかわからないから(笑)。

野村さんは素直な性格だけど、森さんはしたたか

――丸山さんは野村監督の下でのヘッドコーチ経験がある一方で、ヤクルトが初の日本一に輝いた1978年の広岡監督時代には、ヘッドコーチだった森祇晶(当時・昌彦)さんとも指導者として接点がありますね。

丸山 野村さんと森さんは、ともにキャッチャーで「知将対決」と言われていたけど、2人は全然タイプが違いますよ。野村さんは人がいいんです。悪気はなくても、自分の思ったことを時と場所を選ばずに、つい口にしてしまう。でも、森さんは絶対にそんなことはしない。自分が話すべきことは事前にしっかり考えていて、「こう話せば、相手はこう反応する」ということを、すべて計算ずくで話している。人間的に言えば、野村さんは「素直」で、森さんは「腹黒い」というか、「したたか」だったかな?


当時を振り返る丸山氏

 photo by Hasegawa Shoichi

―― 一般的には、森監督も野村監督もキャッチャー出身の「知将」という印象がありますが、丸山さんから見たら、人間的にも監督としてもタイプが違うのでしょうか?

丸山 人間的には違うタイプだと思いますけど、監督としてはどうですかね。僕は森監督の下で野球はやったことがないのでわからないけど、人をうまく使うのは、森さんのほうが長けている気がします。さっきも言ったけど、森さんは「こう言えば、相手はこう出る」という判断が上手でしたから。そういうことは野村さんにはできない(笑)。

――では、野村さんが長けている点は?

丸山 「野球とはこういうものだ」という本質、本筋をきちんと理解して、理論を持っているということかな。自分の野球スタイルをきちんと持っていますよね。

――この年のシリーズ開幕前の監督会議で、野村さんが森監督に対して、「西武にはスパイ疑惑がある」と指摘しました。この会議には丸山さんも出席していましたね。

丸山 あぁ、そういうこともありましたね。お客さんに仕立てたスパイを外野席に座らせてサインを盗んで、伝達しているという話だったかな? あるいは、スコアボードの中にスパイを忍ばせているという話だったかな? そういえば、森さんがヤクルトにいた頃、そういうスパイ行為を一番気にしていたのが森さんだったね。あるとき、森さん自ら広島市民球場のスコアボードの裏側まで見に行ったこともあったから。

―― 一連の発言は、野村さんならではの陽動作戦だったのでしょうか?

丸山 もちろん、そうだと思います。相手を牽制する意味があったんでしょう。こちらとしては予告先発なんかしたくないのに、向こうが断ってくることが分かっていて、あえて「予告先発をしようじゃないか」と言ったり。そういう牽制はよくありましたね。

事前の「西武対策」がほとんどできなかった1992年

――1992年のペナントレースは阪神とのマッチレースでした。10月10日に、甲子園球場で14年ぶりにセ・リーグ優勝。そして日本シリーズは翌週17日開幕という日程でした。事前の準備はどのくらいできたのですか?

丸山 ほとんどしていないです。もちろん、ミーティングを重ねたりビデオを見たりはしましたけど、西武の資料が少なくて、シリーズが始まってから直接対策を考えるという感じでした。むしろ、この1週間は自軍のコンディション調整や、士気を高めることがメインでした。

――そうした状況の中で、「勝てるぞ」という自信、手応えはありましたか?

丸山 うちは若い選手が多かったし、初めてシリーズに出場する選手がほとんどだったから、「勝てるぞ」というイメージはなかったです。正直に言えば、「セントラルの代表として、無様な試合はできないな」というイメージでした。ただ、僕の気持ちとしては、勝つとか負けるとかはともかく、勝負事は「やってみなくちゃわからない」と楽観視している部分もあったけどね。だけど、相手メンバーを見たら、すべてが西武のほうが上だったけど。

――野村さんはシリーズ開幕前に、「ひとつ敗れるとズルズルいってしまうので、4勝0敗で勝つ」と宣言しました。これは本音だったのでしょうか?

丸山 全然、本気じゃないと思いますよ。確かに、ひとつ負けたらズルズルいってしまいそうな気配はあったから、選手たちに意識を植えつけるためにも「4連勝する」と言ったんだと思います。それは、あの人の得意なやり方ですよ。

――そもそも、丸山さんが野村監督の下でヘッドコーチに就任するきっかけは何だったのですか?

丸山 僕がヘッドコーチになったのは、野村さんの2年目の1991年です。このときは「お前、やってくれないか」ということで引き受けました。野村さんは外から来た人だったので、ずっとスワローズにいる僕がそばにいるのはやりやすかったんじゃないですか? 野村さんはよく、「オレはチーママだから」と僕にこぼし、「その点、丸山は大ママだから」と言っていました。自分のことを「雇われママ」だと思っていたんですかね(笑)。

――野村さんの就任によって、少しずつ「ID野球」がチーム内に浸透していくわけですね。

丸山 そうですね。広澤(克実)や、池山(隆寛)は多少、とまどいはあったようだけど、古田(敦也)は全面的に信頼して伸びていきました。たとえば、「この流れだと次は70%の確率でストレートが来る」というデータがあったときに、広澤は「でも、ひょっとしたら変化球が来るかも?」と、「残り30パーセント」のことを不安に思うタイプ。一方で古田は「70%なら大丈夫だ」と、楽観的に考えるタイプでしたね。こうして彼らが成長した結果が、1992年の日本シリーズ進出だったんです。

(後編に続く)