【大仁田厚の邪道なレスラー人生(4)】

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 昨年10月に7度目の引退試合を行なった大仁田厚が、9月28日に都内で会見を開き、7度目の現役復帰を発表。10月28日に開催されるプロレスリングA-TEAMの神奈川・鶴見青果市場大会において、ギャラをもらわない「ボランティアレスラー」としてリングに上がることを明言した。

 60歳となった今でも「邪道」を突き進む大仁田が、20年前にかつての敵である新日本プロレスに参戦し、長州力との一戦を迎えるまでの経緯を振り返る。



実現するまでに約2年の月日を擁した長州力との対戦

 フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング(FMW)を去った1998年秋、オレは新日本プロレスに参戦することになった。実は、この年の夏ぐらいからFMWがオレを排除しようとしている動きを感じたから、次の戦う場所を探していたんです。

 リングに上がるならメジャーな新日本しかないと思っていました。当時のマネージャーが新日本のマッチメイクを担当する永島勝司企画部長とパイプを持っていたから、コンタクトを取って、交渉を重ねてOKをもらったんです。

 最初に上がったのは1998年の11月18日の京都大会のリングでした。ここでは「観客にアピールをしてほしい」とだけ言われていたんですが、新日本に上がるなら、当時すでに引退していた長州力を引っ張り出すしかないと思っていたから、長州選手への挑戦状を持ってリングに上がったんです。これは、オレ自身のアドリブだったから、永島さんも長州選手も戸惑ったと思いますよ。
 後から聞いた話だけど、オレを上げるか上げないかで新日本の営業部が会議を開いたときに、オーナーだったアントニオ猪木さんが

「大仁田を上げるなんてとんでもない」って猛反対したらしいんですよ。でも、新日本は年明けの1月4日に開催される東京ドーム大会の参戦をOKした。オーナーの意向にそむいてまでも、オレを上げることを認めたということは、新日本も東京ドームを満員にするために常に”看板”が必要だったんでしょうね。

 その東京ドーム大会では佐々木健介と戦いました。たったひとりで敵地に乗り込む形になりましたから、リング上で危険な目に合う”万が一”も想定して、右のリングシューズの中にナイフを隠し持ってリングに上がりましたよ。結果は反則負けだったけど、6万人の観客が一斉にブーイングしてね。あの声を聞いた時に、新日本でオレも認められたと思いました。レスラーにとっては無視されることが一番ダメなことだから、あれだけの反応があったのは心地良かったですよ。

 ただ、長州選手を引っ張り出すまでには時間がかかりましたね。”出来レースだった”と思われているかもしれないけど、まったくそんなことはなかった。長州選手は、復帰するつもりはまったくなかったんです。永島さんからも「難しいと思うけど、オレに任せてくれ」とだけしか言われていなかった。

 実際、オレがマスコミを通じて長州戦をアピールしても、反応はなかったですから。そんな中でも、新日本は4月のドーム大会で蝶野正洋との電流爆破をマッチメイクして、ドーム興行の看板としてオレの存在を認めてはくれていた。

 蝶野選手との試合は面白かったですね。入場でオレがくわえたばこで登場して、彼はハマーに乗って現れた。”リッチな新日本”と”プアーな大仁田”という構図を浮き彫りにさせることができたんですが、そういうセンスを蝶野選手は持っていました。

 その試合は「新日本で初めて電流爆破デスマッチ」ということで話題を呼びました。一点だけ、蝶野選手が普段は着ないチョッキみたいなものを着てリングに上がってきたのはひっかかりましたね。爆破が怖かったのかもしれないけど、やるんならいつもと同じスタイルでこいよって思いましたよ。

 蝶野戦も注目され、8月には神宮球場で化身のグレート・ニタとして、武藤敬司の化身のグレート・ムタと対戦しました。それでも長州選手は動かない。そうなると、ファンの興味が薄れていくんです。

 そんな膠着(こうちゃく)した中で力になってくれたのが、新日本を中継するテレビ朝日の真鍋由(まなべ・ゆう)アナウンサーでした。新日本参戦が決まったときにインタビューに来た彼に、張り手を浴びせて蹴りを入れたりしたんです。それを見たテレ朝のアナウンス部長が激怒して、プロレス中継のスタッフに「やめさせろ」って猛抗議してきたらしいんです。

 でも、その週の視聴率は普段より上がって、そこから真鍋アナがオレをインタビューすることになった。「大仁田劇場」と言われて、番組の目玉になっていったんですよ。彼とは食事もしたこともなければ、普段もそれほど会話する仲ではなかった。試合後のインタビューのやり取りは、打ち合わせが一切ないアドリブでした。その緊張感が視聴者に伝わって、視聴率もよかったんだと思います。

 真鍋アナは長州選手との試合実現にもひと役買ってくれた。オレの興行の試合前に、永島さんが長州選手の汗が付いたTシャツを持ってきて、「これが長州のメッセージ代わり」と伝えてくれた。そのときも真鍋アナがインタビューに来ていたから、アピールすることができたんですよ。実際は、あのTシャツがオレのところにきたときも、長州選手自身は対戦を決意してはいなかった。それでも、あれだけ放送されたことで外堀が埋まっていったんでしょう。

 真鍋アナとの大仁田劇場が話題を呼んで注目されたからこそ、長州戦への機運をキープし、高めることができた。真鍋アナという存在がなかったら、長州戦までたどり着かなかったでしょうね。彼がいたからオレは新日本でやっていけたし、長州戦も実現できたと思っています。だから、真鍋アナには本当に感謝していますよ。

 長州戦は2000年7月30日に横浜アリーナで実現。試合形式は電流爆破に決まって、この時点でオレは「勝った」と思いましたよ。「絶対に復帰しない」と断言していた長州選手を引っ張り出し、なおかつ、電流爆破をのんでくれましたからね。実際の試合での勝ち負け以上に、その2つを新日本と長州力が受諾したということが、オレにとって大きな価値がありました。

 当日は、超満員札止めの1万8000人が横浜アリーナを埋めて、CS放送のスカイパーフェクトTVが初めてペイパービューで生放送を実施するほど、異様な盛り上がりを見せました。1万円のチケットがオークションで47万円にまで跳ね上がったとも聞きます。放送席も、真鍋アナが実況する大仁田側の放送席と、辻よしなりアナが実況する長州側の放送席と2つセットしてね。真鍋アナには当日、「これを着て実況しろ」と、3万円で買ったスーツをプレゼントしましたよ。

 ただ、試合内容は少し残念だった。長州選手のサソリ固めでレフェリーストップで負けたんだけど、オレは有刺鉄線にボディスラムで投げられて4回も被爆。だけど、長州選手は1度も爆破を浴びなかった。そのとき思ったのは、長州選手はチキンだったのかなってこと。

 それと、プロレス観の違いもあったと思う。オレは馬場さんから教えられた「プロレスは受け身だ」というスタイルを貫いた。それに対して長州選手は「攻めること」が自分のスタイルだと信じて戦ったから噛みあわなかったのかなと、今になって思うところですね。

 目標だった長州戦を終えて、オレは新日本から去ることになりました。たった1試合にたどり着くまで2年近くかかったことは、それまでになかった経験。最初はどうなるかわからない新日本参戦でしたが、自分の信念を貫けば願いは叶うんだということを教えられました。