西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(4)【リーダー】ヤクルト・広澤克実 後編…
西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(4)
【リーダー】ヤクルト・広澤克実 後編
(前編はこちら>>)
1993年の第7戦で放った先制3ランの思い出
――前年の雪辱を果たすべく臨んだ1993年日本シリーズ。この年も第7戦までもつれこみましたね。
広澤 この年のシリーズでよく覚えているのが、第4戦に勝ったときのこと。この試合で川崎(憲次郎)が好投して1-0で勝って、対戦成績が3勝1敗になった瞬間、「これで勝った」と思っちゃったんだよね。
――「第4戦に勝った」という意味じゃなく、「シリーズに勝った」と考えたんですか。それはちょっと早すぎるんじゃないですか(笑)。
広澤 早すぎるけど、「勝った」と思っちゃったんだよね。気の緩みっていうわけじゃないと思うけど、そう思っちゃったんだからしょうがない。結局は、第5戦も第6戦も負けて3勝3敗になるんだけど(笑)。3勝3敗になったときには、逆に「今年も3勝4敗か……」という気持ちになったのが、いざ第7戦のミーティングが始まると、「絶対に勝つぞ」っていうまた違う感情が芽生えたね。
――3勝3敗で迎えた第7戦。スワローズはいきなり初回に3点を奪います。四番を務めた広澤さんの先制3ランでした。手応えなど、ご記憶にありますか?
広澤 もちろんあります。第7戦、「よーい、ドン」の最初の打席でしたからね。緊張感はマックスでしたよ。でも、1992年の初戦のときは足の震えがとまらなかったのに、このときは震えはなかったですね。あの場面は1アウト1、3塁だったと思うんだけど、「最低でも犠牲フライ」というか、「最低でも、最高でも犠牲フライ」という感じでしたね。
第7戦の第1打席で3ランホームランを放った広澤氏
photo by Kyodo News
――ライオンズの先発、渡辺久信投手のスライダーを見事にとらえましたね。
広澤 渡辺久信のスライダーがよく曲がるんだよね。伊藤智(仁)ほどじゃないけどさ。それで、キャッチャーの伊東(勤)がスライダーばかり投げさせやがって、本当に。
――6球目ファールチップを伊東捕手が落として命拾いをした後の7球目でしたね。
広澤 そうだったの? それは覚えてないな(笑)。
日本一の瞬間は、「本当に勝ったのかな?」という不思議な感覚
――1回表に広澤さんのホームランで3点を奪ったものの、1回裏、すぐに清原和博選手の2ランで、3-2と追い上げられました。
広澤 まったく勝ってる気がしなかったですね。だから、1回裏が終わった段階からアウトカウントを指折り数え始めたんです。野球って9回27アウトを取れば勝ちでしょ? だから、1回裏が終わった時点で「残り24アウトだ」って。そこからイニングが終わるたびに、「あといくつ」って数えていたのを覚えていますね。
――8回表には、広澤さんのショートゴロの間に1点を追加します。三塁走者の古田敦也選手が生還。前年の広澤さんのスライディングを教訓にして生まれた「ギャンブルスタート」を成功させました。そして、4-2でスワローズが日本一に輝きます。
広澤 優勝の瞬間、僕はマウンドの高津(臣吾)の下に駆けつけるのが少し遅れているんです。というのも、いつも僕は確認をしちゃうんです。「えっと、ツーアウトだったから、今のアウトでスリーアウトだな。ということはゲームセットだ、日本一だ」って。1992年の日本シリーズ初戦で、杉浦(享)さんが代打サヨナラ満塁ホームランを打ちましたよね。あのときも、「延長戦、裏の攻撃で杉浦さんが打った。ということはサヨナラ勝ちだ」って、確認してからベンチを飛び出しました。ホントはまだ勝っていないのに「うわー!」ってやったら笑いものだからね(笑)。
日本一の瞬間を語る広澤氏 photo by Hasegawa Shoichi
――前年の屈辱を経て、「今年こそ」の思いで臨んだ1993年日本シリーズ。リベンジを果たした瞬間はどのような心境になるものなんですか?
広澤 「本当に優勝したのかな?」という不思議な感情に包まれたまま、野村さんを胴上げしました。そして、少し落ち着いた後の表彰式のときに、「あっ、勝ったんだな」って実感して、すこしウルっときましたね。野球人生の中で最高に幸せだった、感極まった一瞬でした。その後に私はジャイアンツ、タイガースに行くけど、どちらも主力ではなかった。だから、この第7戦が野球人として本当の絶頂だったと思います。今から考えればね。
「ID野球」とは、「視点を変える野球」
――あらためてこの2年間を振り返っていただきたいのですが、当時”黄金時代”にあったライオンズに、1993年の勝利でスワローズは追いついたと思いますか?
広澤 そんな思いはないですよ。イメージでは西武のほうが上ですね。勢力図が逆転したなんて、誰も思っていないんじゃないかな? 戦ってみて、むしろ「やっぱり西武は強い」って実感したよね。ただ、自分たちに対する過小評価はなくなった気がします。今もこうやって1992年と1993年の日本シリーズについて取材を受けるっていうことは、ファンに与えた印象も強かったんだなと、あらためて実感しますよね。
――スワローズとタイガースの2球団において、野村監督の下でプレーした広澤さんに伺いたいのは、「ID野球」とは、一体何なのかということです。
広澤 ID野球とは「視点を変える野球」ということじゃないですか。僕らは小さい頃から常に、「野球とは……」という先入観を植えつけられてきたけど、「そうじゃないんだよ、こういう見方もあるんだ。もっと違う視点から見なくちゃダメだよ」っていうのがID野球なんじゃないかな?
――ライオンズの石毛さんは「ID野球、何するものぞ」という反発心が強く、「オレたちは技術屋なんだ」という思いが強かったと言います。この点について、どう思いますか?
広澤 野村さんの言うID野球というのは、目に見えない「無形の力」のことなんです。対する「有形の力」というのは、目に見える「打つ」「投げる」「捕る」という技術のこと。石毛さんの言っていることは有形の力の部分だと思うんです。一生懸命に練習すれば、誰もが石毛さんのようになれるのか、イチローのようなバッターになれるのかといったら、そんなことはない。
じゃあ、技術が劣っている者はどうすればいいのかっていうと、頭を使うしかないんです。いつもケンカに負けている人間が「何とかして勝ちたい」と思ったら、「武器を準備しようか」とか、いろいろ考えるでしょ。
――練習や技術で磨くことのできる「有形の力」と、データを駆使して頭を使う「無形の力」があって、ID野球とは「無形の力」を重視した野球ということですか?
広澤 そういうことです。野村さんの野球は、無形の力で頭を使って考える野球。つまり、戦術とか戦略だね。だから、最強なのは有形の力を持ちながら、無形の力を持つこと。野村さんはそれを目指したんじゃないのかな? でも、そんな野村さんにも弱点はあるんです。
――その「弱点」とは?
広澤 野村さんの理論は、戦術、戦略、モチベーションなんです。つまり「考え方」を教えてくれるものなんだけど、野村さんには技術論にやや欠点があるんです。たとえば、150キロのボールやスライダーを打てないバッターにどうやって打たせるのか。ストライクが入らないピッチャーはどうすればコントロールがよくなるのか。そういう技術論が少し抜け落ちているんです。
――それでも、1992年、1993年のヤクルトは本当に強かったですし、1990年代を通じて黄金時代を築いていきます。その要因はやはり、野村さんのID野球だったのでしょうか?
広澤 野村さんのID野球はもちろんですけど、あの頃のヤクルトの強さを支えたのは、やっぱり古田敦也ですよ。オフェンスもディフェンスも兼ね備えたキャッチャーでしたから。その中での僕の役割は、チームリーダーというより、弱い時代から支えてきたムードメーカー。そんな感じじゃないのかな(笑)。