西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(1)【リーダー】西武・石毛宏典 前編 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、…

西武×ヤクルト “伝説”となった日本シリーズの記憶(1)

【リーダー】西武・石毛宏典 前編

 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、”黄金時代”を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ80年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。あの激戦を戦い抜いた、両チームの当事者たちに話を聞く連載がスタートする。

 最初のテーマは「リーダー」。まずは西武・石毛宏典のインタビューをお届けしたい。



黄金時代の西武でチームリーダーを担っていた石毛氏

 photo by Kyodo News

「ID野球、ふざけるな!」という思いしかなかった

――1992年と1993年に行なわれた、ヤクルトとの日本シリーズから四半世紀が経過しました。石毛さんにとって、この2年間のシリーズはどのような印象が残っていますか?

石毛 俺もあの頃は、ちょうどいい年齢でしたね。1992年が36歳、1993年が37歳か・・・・・・。あの2年間のヤクルトは、野村克也監督の「ID野球」という言葉が話題になっていた。でも俺は、いまだに「ID」が何の略だかわからないよ(笑)。

――「Important Data(データ重視)」の略だと言われていますね。

石毛 「データ重視」って言われたって、俺は特に何も思わなかった。むしろ、「データ、何するものぞ」って。だって、野球は人間のやるスポーツなんですよ。「そんなものに負けてたまるか」っていうのがありました。とにかくあのシリーズは、「森祇晶vs野村克也」、「伊東勤vs古田敦也」、みたいに言われていましたよね。

――もちろん、当時の西武野球でもデータは活用されていましたよね?

石毛 当然、我々だってデータの活用はしていましたよ。でも、そもそも俺はデータというものは参考にする程度で、そんなに重要視はしていませんでした。だって、「このカウントではカーブが来る」というデータを信じて踏み込んでいっても、そのデータが間違っていてデッドボールを食らうこともあるわけです。あるいは、ショートの守備位置からピッチャーの投球を見ていて、逆球で抑えることだってある。だから俺は、よく伊東に皮肉を言いましたよ。「逆球で抑えて、好リードはないだろ」って。

――石毛さんの意識の中には「反ID野球」の意識があったのですか?

石毛 ありましたね。我々プロ野球選手は技術屋なんですよ。投げたり、捕ったり、打ったり、そういう技術で勝負をしているわけです。売り物は技術なんです。野村さんが「ID」と言い続けたのは、我々の意識をそっちに持っていこうという情報操作戦のような気がしましたね。「ID」とか、「メンタル」という言葉に逃げているような気がして、俺は嬉しくはなかった。もちろん、それも大事かもしれないけど、「その前にもっと技術を磨くことに時間を費やせよ」と言いたくなるわけです。だから、「ID何するものぞ」という思いしかなかった。

普段はチームワークは必要ないけど、日本シリーズは別

――当時の西武ライオンズは、1990年は巨人に4連勝、1991年は広島に4勝3敗と、2年連続で日本一を達成していました。この頃の西武は、まさに”黄金時代”の真っ只中にあったと考えてもいいのでしょうか?

石毛 俺の意識の中では、巨人に4タテを食らわせた1990年が戦力的にピークだったと思います。年齢のバランス、投打のバランス、打順のバランス、すべてが確立されていたし、当時の西武はレギュラーがほぼ固定されていました。でも、そこから1年ごとにみんなが年を取っていく。1992年は、ヤクルト相手に我々が4勝3敗で勝ったけれども、非常に厳しい戦いだった。

 その年だって、1-1で迎えた第7戦の7回裏(ヤクルトの1アウト満塁のチャンス)に、サードランナーの広沢(克己/現・広澤克実)が変なスライディングでアウトになっていなければ、我々が負けていたかもしれないわけだから。そういう意味では、今から思えば1992年は緩やかにチームが”下り坂”に差しかかっていた頃だったと思うし、1993年はデストラーデが抜けて、戦力はガタっと落ちていた時期だったのかもしれないですね。

――反対にヤクルトは、「イケトラコンビ」に代表される池山隆寛選手、広沢克己選手など、伸び盛りの若手選手が多くて勢いのあるチームでしたよね。

石毛 確かにそうなのかもしれないけど、俺たちはあくまでもパ・リーグの覇者で、セ・リーグの覇者を迎え撃つという意識しかなかった。当時の我々は、シーズン開幕時点で「日本シリーズに出るものだ」という意識があったし、ペナントレース130試合と日本シリーズ7試合の計137試合が体内時計に入っていましたからね。相手がどうのこうのというよりも、自分たちの野球をやるだけだったし、「日本シリーズは簡単に勝てるものではない」ということはよくわかっていたから。

――先ほど話にも出ましたが、当時の石毛さんはプロ12年目の36歳、13年目の37歳でした。当然、チームリーダーとしての自覚は持っていましたか?

石毛 まさに、当時はハッキリとリーダーの自覚はありましたね。ただ、グラウンドでは、それぞれが個人事業主の集まりだし、秋山(幸二)、清原(和博)、デストラーデが主役ですよ。もちろんグラウンド外では先輩後輩の上下関係はありましたが。・・・・・・でも、そもそも俺は「プロ野球にチームワークはいらない」って考えなんですよ。

――「プロ野球にチームワークはいらない」。その理由は?

石毛 アマチュア時代ならばチームワークは大事です。監督や先輩が絶対で、自己犠牲もいとわない。でも、プロの世界というのは、さっきも言ったように個人事業主の集まりだし、先輩や後輩はいたとしても、たとえば俺が清原の給料を出しているわけでもない。みんな個々の成績や数字に執着するわけですし、俺はそれでいいと思っています。

 でも、日本シリーズだけは別なんです。日本シリーズでは、自己犠牲も、チームワークも必要になってくる。みんなアマチュア時代にそういうことを叩き込まれた期間があるだけに、シリーズ中だけは一過性のチームワークが芽生えるんです。

――当時、ペナントレース中のライオンズにはチームワークはなかったんですか?

石毛 チームワークはなかったですよ。それぞれが自分の仕事をするだけですから。でも、チームワークはなくても、仕事に対する責任感、使命感はみんなが持っていましたね。レギュラーを張ってる人間は給料が高く、裏方さんを含めた多くの人の生活も背負っている。たとえば、清原は二日酔いでグラウンドに来るときがあったんですが、そんな姿を球団職員や裏方さんが見たら、「何だ、コイツ」となるわけです。そういうときには、俺も注意はしますよ。「キヨ、飲んでもいいけど、試合だけはちゃんとやれよ。みんなの生活がかかっているんだぞ」って。でも、それはチームワークではないです。

――チームワークよりも、個々が抱いていた責任感、使命感が大きかったということですね。

石毛 そうです。責任感や使命感は原動力になるし、自分を律する糧にもなりますよね。

――当時のライオンズナインの意識の高さがうかがえますね。

石毛 特にレギュラー連中は、みんな意識が高かったですよ。「仕事は休んじゃいけない」という雰囲気でしたから。だからレギュラーが固定したし、それによってバックアップの選手たちも固定する。そうなれば、自ずと自分たちの役割も決まってくる。代走、代打、守備固め。あるいはリリーフにしても、自分の仕事が決まればミスも減るわけです。そういうところが機能的に働いたんでしょうね。

――そういうチーム事情だと、混戦を制してようやく14年ぶりにセ・リーグ優勝を決めたヤクルトのことは、格下のように見えたりはしなかったのですか?

石毛 それはないね。さっきも言ったけど、日本シリーズは簡単に勝てるものではないということを俺たちは知っていたから。浮ついた気持ちはなかったし、ヤクルトが強いとか、弱いとかは関係なかった。

1992年シリーズで忘れられないのは、石井丈裕の一打

――では、具体的に1992年シリーズから伺います。この年のスワローズは岡林洋一投手が初戦、4戦、7戦に先発。いずれも完投し、3試合で30イニングを投げています。

石毛 岡林はすごかったね。彼はシュートピッチャーなのかな? 実際に打席に入ってみたら、事前に見た映像よりも食い込んでくる印象がありました。ただ、俺の場合は最初からデータにはとらわれていなかったから、「あっ、こういうボールなんだ。じゃあ、こうやって打とうか」と、試合を通じてアジャストしていきました。




当時の映像を見ながら日本シリーズを振り返る石毛氏 photo by Hasegawa Shoichi

――石毛さんは現役時代に、全11回も日本シリーズに出場していますが、短期決戦の心得のようなものはありますか?

石毛 日本シリーズの場合は、成績が給料に反映されるわけではないから、たとえ打ち取られても、「しゃあないや」と切り替えることですね。1戦終わったら、すぐにリセット。でも、その中で得た情報はきちんと次に生かす。その積み重ねかな。

――この年の日本シリーズで印象に残っているシーンはありますか?

石毛 第7戦のタケ(石井丈裕)が打席に入った場面かな。

――3勝3敗で迎えた第7戦。7回表、2アウト1、2塁で得点は0-1のビハインド。ヤクルトのマウンドには好投を続ける岡林投手。この場面で打席に立ったのは石井丈裕投手でしたが、西武は代打策を取りませんでしたね。

石毛 あの年のタケちゃんは本当に頑張っていたんだよね。タケが打席に入る前に彼を呼んで、「いいか、お前がバットを振っても絶対に当たらない。いいか、絶対に振るなよ。バットをボールにぶつければいいんだ。いいか、振るなよ、ぶつけろよ!」と言って、ものすごい声援を送ったんです。

――当時の試合映像には、メガホンを持って叫んでいる石毛さんの姿が映っています。

石毛 それで、タケちゃんが見事にぶつけてくれて、打球はセンターの飯田(哲也)の頭上を越えた。あれは飯田なら捕れた打球だったと思うんだけど、彼も舐めていたのかもしれない。この一打が同点打となって、延長戦で勝って日本一になった。あのヒットは本当に嬉しかったし、最高だったよ。

(後編に続く)