ベテランJリーガーの決断~彼らはなぜ「現役」にこだわるのか第5回:冨田大介(水戸ホーリーホック)/前編 練習を終えて…
ベテランJリーガーの決断
~彼らはなぜ「現役」にこだわるのか
第5回:冨田大介(水戸ホーリーホック)/前編
練習を終えてひとり、チームの輪から飛び出すと、グラウンドの周りを黙々と走り出した。時間にして、およそ20分。聞けば、太りやすい体質の改善と疲労回復、体の基盤作りを兼ねて行なっているという。
その効果を訪ねると、「平均体重は今年に入って2kg減。体も絶好調!」と歯切れのいいコメントが返ってくる。だが、続けて聞かれた言葉が、本音だろう。
「チームの力になるには、まずは自分が動けないと話にならないし、動ける体を作るためには、それ相応の準備もケアもいる。41歳、やることは多いです」
プロ19年目。6度目の移籍を果たし、3度目の在籍となる水戸ホーリーホック(J2)で、冨田大介は相変わらず、自分との戦いを続けていた――。

自らのサッカー人生について語る冨田大介
7月11日に行なわれた天皇杯3回戦、対川崎フロンターレ戦。今季2度目の公式戦出場となったこの一戦で、DF冨田大介は徳島ヴォルテイス在籍時の2016年4月以来、約2年ぶりのゴールを決めた。41歳となり、3度目の在籍となった水戸ホーリーホックでは約5年ぶりだ。
残念ながら、試合は延長、PK戦の末に敗れたが、試合後、彼のもとには活躍を喜ぶ仲間や友人から、たくさんの『LINE』が届いたと聞く。それに対しては、「いろんな人が気にかけてくれるのはありがたい」と頬を緩ませたものの、自身のプレーを含めた試合内容については、120分間の出来事を冷静に受け止めていた。
「実は僕、(ヴァンフォーレ)甲府時代に戦った天皇杯で、今回と同じようにPK戦になって、キッカーに選ばれたのに外して負けてしまったことがあるんです。以来、『もうPKは蹴らない』と思っていたのに、なぜか今回は監督に1番で指名されて、決めることができた。その部分だけを切り取ると、自分がやり残してきたことを消化できたような感覚はあったけど、それ以外の……ゴールを決めたとか、120分間戦えたことについては、あまり特別な感情はないです。
実際、その試合が以降のJ2リーグの戦いにつながっているのか、と考えても、メンバーに入れていない、イコール、監督の評価基準に達していない、ということですから。J1の川崎を相手に攻守に自分たちの戦いができて、個人的にもその中心で活躍して結果を出せたのなら、それに対して僕自身も、『なんで使ってくれないんだよ』と思ったかもしれないけど、そうではないな、と。
だからこそ今は、もっと自分を研ぎ澄ませたいし、もっとやれる自分を示したい、ということだけを考えています」
今年で19年目を迎えるプロサッカー選手としてのキャリアは、その「もっと、やれる自分を示したい」という欲に背中を押されてきた。いや、正確には、その欲が彼の中心に居座るようになったのは、ここ数年のこと。それまでは、プロを明確に目指し始めた高校時代からずっと”日本代表”が目標だった。
「中学生のときに、サッカー選手になりたいと思ったのは、単にサッカーをしていたから、というくらいの単純な理由でした。でも、それを中学校の恩師に話したら、先生は当時の僕のサッカーの能力を冷静に見ていたんでしょうね。筑波大学に行くことを薦めてくれたんです。
『実力的に、今のおまえなら、地元・山口県の強豪高校に行って、全国大会で活躍してプロを目指すより、まずは自分を磨いて、関東の大学でサッカーをすることを目指せ』と。
当時の大学サッカー界は、関東が圧倒的に強かったからだと思いますが、『そこでプレーしていれば、スカウトの目に止まるかもしれないし、筑波大学なら仮にプロになれなくても、教員免許も取れるし、大学を卒業してもつぶしがきくぞ』とも言われました。その言葉に納得して、高校も進学校の宇部高校を選び、それが筑波大学への進学につながった。
もちろんそうはいっても、高校時代も全国大会にこそ出場できなかったけど、中国大会では3位になったし、自分なりにサッカーにも全力で取り組んでいたんですよ。また、その過程で”日本代表”という目標が芽生えたことで、筑波大学に進学したいという思いもより強くなった。
もっと言えば、すべてが順風満帆に進んだわけではなく、ケガに苦しんだ時期もあったけど、そのつど『起きたことには意味がある』と思って向き合ってきたことが、結果的に、のちのキャリアにつながったんだと思います」
一般入試で筑波大学に合格してからの人生も、常に”日本代表”を目標に据えて自分を奮い立たせてきた。
筑波大学ではそう多くの試合に絡むことはできなかったが、2000年にはJ2リーグに昇格したばかりの水戸ホーリーホックに加入。開幕戦から先発に名を連ね、ルーキーイヤーにして、J2リーグ33試合に出場する。
そのなかで、「日本代表を目指すには、まずはJ1リーグでプレーすることが必要だ」と考えるようになった。そこで、2004年には大宮アルディージャへの移籍を決断。当時の大宮はJ2リーグを戦っていたとはいえ、「明確にJ1リーグを目指せるJ2クラブ」であることが決め手になった。
だが、皮肉にも自身が掲げた”日本代表”という目標に疑問を抱くようになったのは、移籍初年度にJ1リーグ昇格を決め、2005年から念願のJ1リーグでプレーするようになってからだ。大宮では毎年のようにコンスタントに試合に出場し続けていたが、当時、どれだけJ1リーグで経験を重ねても、”日本代表”に近づいているという実感は「持てなかった」と振り返る。
「J1でプレーするまでは、日本代表を自分の中で想像できていたのに、いざJ1でプレーするようになって、実際に日本代表クラスの選手のプレーを間近で体感するほど、自分の力不足を痛感させられたというか。今になって思えば、そこで自分に自信を持てていれば、もっとやれたこともあったんじゃないかと思うけど、当時は素直に自分の実力を受け止めすぎていたせいか、日本代表を現実的な目標には考えられなくなっていた。
しかも年を重ねるほど、日本代表への思いも薄れていき……そうこうしているうちに、30歳も過ぎて、あらためて考えたんです。僕はこの先、どんな気持ちで、何を目標にサッカーをするのか、と。
そのときに、自分の気持ちの真ん中にあったのが、『自分はもっとやれるんだということを証明したい』という思いでした。それが明確になってからは……結果的に僕は、2010年に(ヴィッセル)神戸に移籍して以降、ほぼ毎年、シーズンが終わるとトライアウトを受けてきたんですが、常にその気持ちに押されて現役を続けてきた気がします。で、気がついたら……なんと、41歳になっていました(笑)」
その言葉にもあるように、冨田は2011年に甲府に加入したときも、2013年の水戸も、2015年の徳島も、そして今年、再び水戸に戻るにあたっても、「自分はもっとできる」という思いのもとで4度のトライアウトを受け、新たな道を開拓している。
だが、見方を変えれば、トライアウトを受けるのは「自分はもっとやれる」という考えと、前所属チームの評価が合致していなかったから、生まれた状況だ。そのことを自分自身はどう消化したのか。あるいは、それによって不安を抱くことはなかったのかを尋ねてみた。
冨田は当時に考えを巡らせるように、ひと呼吸置いてから、答えをくれた。
(つづく)